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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第29話 忘却は、やさしくない その5 拒まれた生

 目を覚ましたとき、空は白んでいた。


 冷たい石の感触が背中にある。


 ゆっくりと視線を上げると、鳥居の影が朝日に溶けていた。


 神社の境内。


 梓はしばらく、何も考えられなかった。


 頭が重い。

 視界が揺れる。

 胸の奥が、妙に冷たい。


 ゆっくりと身体を起こす。


 その瞬間、激しい吐き気が込み上げた。


「……っ」


 喉を押さえる。


 胃の奥がひっくり返るような感覚。


 息を整えるまで、しばらく動けなかった。


 昨夜の記憶が、ゆっくりと浮かび上がる。


 灰色の空間。

 潰れた男女。

 顔のない影。

 裂けた世界。


 そして――


 あの声。


 残響。


 梓は境内を見渡した。


 社殿。

 石灯籠。

 参道。


 何も変わらない。


 血もない。

 争った痕跡もない。


 鳥の声が聞こえる。

 遠くの車の音が、日常を連れてくる。


(……夢?)


 そう思いたかった。


 あまりにも現実離れしている。


 だが、視線を落とす。


 袖が裂けている。

 膝には擦り傷。

 土で汚れた手。


 夢ではない。


 身体が証拠だった。


 立ち上がろうとすると、膝が震えた。


 力が入らない。


 恐怖ではない。


 消耗。


 生命力そのものが削られたような、妙な虚脱感。


 梓は石段に手をつき、ゆっくり立ち上がった。


 空はすっかり朝だった。


 昨夜の出来事が、嘘のように静かだ。


 だが。


 胸の奥に、はっきりと残っている。


 あの影。

 あの空間。


 あれは、まだ終わっていない。


(青木さん……)


 名前を思い浮かべるだけで、胸が痛む。


 誰も覚えていない。

 消えた人間。

 記録に残らない存在。


 警察に言っても、病院に行っても、説明できない。


 それでも。


 確かめたかった。


 あれが現実なのか。


 青木は、本当に消えたのか。


 梓はスマートフォンを取り出した。


 時刻。

 日付。

 月齢。


 昨夜と同じ条件を、頭の中でなぞる。


(……もう一度)


 確認しなければならない。


 そう思ってしまった。


 普通の判断ではない。


 だが止められなかった。


 答えが欲しかった。


 梓は、その場に留まった。


――


 夜。


 満月が境内を白く照らしている。


 梓は石段の前に立っていた。


 昨日と同じ場所。

 同じ空気。


 違うのは、自分の心だけだった。


 怖い。


 足が震える。

 喉が乾く。


 それでも、引き返さなかった。


 境内に入る。


 冷たい空気が肌を撫でる。


 00時00分。


 何も起きない。


 00時02分。


 虫の声が消える。


 00時04分。


 空気が重くなる。


 梓の胸が凍りついた。


 分かる。


 来る。


 社殿の前。


 暗闇が歪んだ。


 影が現れる。


 昨日と同じ。


 人の形。


 顔のない存在。


 だが――


 昨日より濃い。


 重い。


 圧倒的な圧力。


 視線が刺さる。


 梓の身体が硬直する。


 逃げろ、と本能が叫ぶ。


 だが足が動かない。


「……青木さんは」


 声が震える。


「ここに……いますか」


 返事はない。


 影が一歩、近づいた。


 その瞬間。


 世界が裂けた。


 地面が消える。


 空が灰色に変わる。


 再び、あの空間。


 空気のない場所。


 呼吸が浅くなる。


 梓は膝をついた。


「……ぁ……」


 影が腕を伸ばす。


 触れた。


 次の瞬間。


 激痛。


 肉を直接削られるような痛み。


 叫び声すら出ない。


 身体の内側を引き裂かれていく。


 記憶が剥がされる。


 名前。

 時間。

 景色。


 自分が誰なのか分からなくなる。


(嫌だ!)


 ただ一つの思いだけが残る。


(消えたくない!)


 涙が溢れる。


 声にならない声が喉を震わせる。


 影がさらに近づく。


 完全に触れた瞬間――


 空間が弾けた。


 黒い衝撃。


 歪み。


 世界に亀裂が走る。


 そこから男が飛び込んだ。


 長身の影。


 手には細い棒状の機器。


 錫杖のような端末。


「――遮断」


 低い声。


 端末が振り下ろされる。


「断界!」


 衝撃が空間を切り裂く。


 影の動きが止まる。


 男が踏み込む。


「中和」


 端末が影に触れる。


「整調」


 瞬間。


 影が崩れた。


 灰色の空間が剥がれていく。


 空気。

 重力。

 音。


 現実が戻る。


 梓の身体が崩れ落ちた。


 夜の境内。


 満月。


 虫の声。


 男が振り返る。


「……何をしているんです」


 梓は答えようとした。


 だが声が出ない。


 視界がぼやける。


 身体が冷たい。


「……無茶をする人だ」


 梓の身体が完全に崩れる。


 男が支える。


「おい!」


 声が遠い。


 視界が暗くなる。


 満月が滲む。


 最後に見えたのは。


 男の顔。


 静かな目。


 そして――


「……間に合ってよかった」


 梓の意識は、そこで途切れた。

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