第29話 忘却は、やさしくない その3 探す者
警察署の空気は、冷蔵庫の中のようだった。
外は真夏だった。
アスファルトが揺らぎ、空気が歪むほどの暑さ。
だが建物の中は、過剰なほど冷えている。
汗が急速に引き、体温が奪われていく。
その代わりに、何か別のものが染み込んでくる。
無関心。
規則。
処理。
「…失踪届ですね」
若い警官は、顔を上げずに言った。
声は平坦で、抑揚がない。
梓は頷く。
「はい。会社の同僚で——」
「ご家族ではないんですね」
言葉を遮られる。
「……はい」
「同居や婚姻関係は?」
「ありません」
キーボードが叩かれる。
カタ、カタ、カタ。
機械的な音。
人間の話を聞く音ではない。
「成人男性の場合、自発的失踪の可能性が高く——」
そこで、何かが切れた。
「違います!」
声が出る。
自分でも驚くほど低い声だった。
警官が顔を上げる。
「連絡もないんです。携帯も、財布も、全部そのままで……」
「事件性が確認されない場合、積極的な捜査は——」
「事件です!」
机に手をついた。
周囲の視線が刺さる。
だが引けなかった。
「あの人は、何も言わずに消える人じゃない!」
警官は困った顔をした。
怒らない。
同情もしない。
ただ、対応に困っている。
「……お気持ちは分かりますが」
分かっていない声だった。
「警察は、事実に基づいて動きます」
事実。
その言葉が刃のように刺さる。
つまり——
証拠がないなら、存在しないのと同じ。
「防犯カメラには映っていません」
「移動履歴もありません」
「争った形跡もありません」
「目撃情報もありません」
淡々と並べられる。
「…ですので」
一拍。
「現時点では事件性は認められません」
世界が一段暗くなる。
椅子の脚が床を擦る音がやけに大きく響く。
「……じゃあ」
声がかすれる。
「どうすればいいんですか」
警官は少しだけ目を伏せた。
「…受理はします」
紙を差し出す。
「何か分かれば連絡します」
それは「何も起きない」という意味だった。
⸻
会社も同じだった。
人事部の会議室。
白い壁。
白い机。
白い光。
「無断欠勤が続いていますので、規定に基づき——」
規定。
またその言葉。
「退職扱いになります」
「ちょっと待ってください!」
声が裏返る。
「連絡が取れないんです! 事故かもしれないし——」
「警察には確認済みです」
同じ言葉。
「事件性はないとのことです」
誰も悪意はない。
怒ってもいない。
ただ、処理しているだけ。
「私物はご家族にお返しするか——」
「いません!」
沈黙が落ちる。
担当者は書類を見直した。
「……では、一定期間保管の後、処分となります」
処分。
人の痕跡が、ゴミのように扱われる。
「席は新しい方が入りますので、今週中に」
もう終わった話として進んでいる。
梓は机を見た。
空席。
そこに確かに人がいた。
声があった。
温度があった。
なのに。
世界は一秒も躊躇しない。
存在を削除することに。
⸻
探偵事務所は薄暗かった。
「…失踪案件は多いですよ」
中年の男が言う。
「特に若い男性は突然いなくなります」
「でも、このケースは——」
「分かります分かります」
分かっていない。
「費用は前払いになります」
高額だった。
だが迷わず払った。
数日後。
「手掛かりはありません」
電話の声は事務的だった。
「不自然な点は?」
「すべてです」
「……え?」
「逆に何もなさすぎる」
その言葉に、背筋が冷える。
「人が消えるときは、何か残るものです」
「生活痕、移動、痕跡……」
「この方は、それが全くない」
一拍。
「まるで最初から存在していなかったようだ」
その探偵は、翌週から連絡が取れなくなった。
⸻
二人目の探偵も同じだった。
三人目も。
報告は途中で途絶え、
電話は不通になり、
事務所は閉まったままになる。
四人目を雇おうとしたとき、
初めて恐怖が芽生えた。
(関わると、消える)
自分も、消えるかもしれない。
だが。
それでも止まれなかった。
怖いからやめる理由にはならない。
怖いまま進むしかない。
夜の街を歩く。
青木が通っていた駅。
コンビニ。
書店。
自販機。
何も変わらない。
世界は正常に動いている。
ただ一人が欠けただけで、
誰も困らない。
それが一番恐ろしかった。
(人は、いなくなっても世界は回る)
自分が消えても同じだ。
代わりはいる。
席は埋まる。
書類は処理される。
存在とは、そんな程度のもの。
足が止まる。
涙が出る。
だが声は出ない。
泣いたところで、誰も戻らない。
喉の奥で、黒い塊が膨らむ。
怒り。
悲しみ。
恐怖。
孤独。
全部混ざって、形にならない。
「……返して」
夜の街に呟く。
車の音に消える。
誰も聞かない。
そのとき、初めて思う。
(世界は、こんなに冷たいのか)
怪異も神もいらない。
人間だけで十分残酷だ。
納得できない。
理解できない。
受け入れられない。
だから探す。
理由を。
答えを。
たとえそれが、自分を壊すものでも。
梓は立ち上がる。
目は赤く、腫れている。
だが涙は止まっていた。
代わりに残ったのは、執念だった。
人が消えるなら、理由がある。
痕跡がないなら、隠されている。
ならば暴く。
誰もやらないなら、自分がやる。
会社も警察も社会も信用できない。
頼れるものは何もない。
それでも。
探す。
見つけるまで。
壊れてもいい。
消えてもいい。
ただ一つだけ。
このまま何も知らずに生きることだけは、耐えられなかった。
その決意が、
やがて“残響”へと彼女を導く。
だがこの時点では、まだ知らない。
世界の理不尽には理由がある。
そしてその理由は、
人間が耐えられる形をしていない。




