第29話 忘却は、やさしくない その2 恋の温度
その頃の真名井梓は、まだ「普通の人間」だった。
朝は満員電車に揺られ、
コンビニのコーヒーを飲み、
締切に追われ、
終電を逃すこともある。
未来があると、疑っていなかった。
彼女は二十一歳。
恋をしたことはなかったが、恋に恋はしていた。
映画のような出会い。
夜景。
不器用な告白。
そういうものが、いつか自分にも起きると信じていた。
青木理は、静かな人だった。
同じ部署の先輩。
年は六つ上。
派手さはない。
雑談もしない。
飲み会にも来ない。
だが、仕事は完璧だった。
説明が短い。
無駄がない。
怒らない。
誰もが頼るが、誰とも距離がある。
最初に声をかけたのは、梓の方だった。
「すみません、このログの意味が分からなくて……」
青木は画面を見て、
数秒だけ黙り、
キーボードを叩いた。
「ここ、条件式が逆です」
それだけ。
声は低く、穏やかで、感情が薄い。
だが冷たくはない。
それ以来、質問をする口実が増えた。
分からないことがあると、青木の席に行く。
説明は短い。
だが理解できる。
そして必ず、最後にこう言う。
「大丈夫だよ」
その言葉が、妙に安心できた。
ある夜。
終電を逃し、
オフィスには二人しか残っていなかった。
蛍光灯の白。
外は雨。
空調の低い音。
青木が珍しく、コーヒーを差し出した。
「苦手じゃなければ」
紙コップは温かい。
「……ありがとうございます」
それだけで、胸がいっぱいになる。
会話はない。
だが沈黙が苦ではない。
同じ空間にいることが、
妙に自然だった。
梓は思った。
(この人となら、静かに暮らせる)
派手な恋じゃなくていい。
映画みたいじゃなくていい。
ただ、同じ部屋にいて、
同じ空気を吸って、
同じ時間を過ごす。
それだけでいい。
ふと、青木が言った。
「夜は、音が少ないですね」
珍しく自分から話した。
「……はい」
「誰も話さない時間です」
少し考えて、続ける。
「だから、好きです」
胸が跳ねる。
何気ない言葉なのに、
それが特別に聞こえた。
(あ……)
梓は、自分が恋をしていると気づいた。
帰り道。
雨は弱まっていた。
駅まで並んで歩く。
距離は一定。
触れない。
近すぎない。
だが離れたくない。
「明日も夜勤ですか?」
「ええ」
「……体、大丈夫ですか」
「慣れてます」
それだけで十分だった。
改札の前で立ち止まる。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
互いに一礼。
それだけ。
それなのに。
胸が温かい。
振り返ると、青木はもういない。
人混みに溶けている。
夢のようだった。
その翌週。
青木は消えた。
何の前触れもなく。
机はそのまま。
PCもある。
コーヒーの空き缶もある。
ただ、本人だけがいない。
最初は、遅刻だと思われた。
昼になり、
夕方になり、
夜になっても来ない。
携帯は繋がらない。
上司は言った。
「…あいつも体調くらい壊すだろ」
翌日。
連絡はなかった。
三日後。
総務が青木の机を片付け始めた。
私物は段ボールに入れられ、
備品は回収され、
PCは初期化される。
「ちょっと待ってください!」
思わず声を上げる。
「まだ……」
総務の女性は困った顔をする。
「本人と連絡が取れない場合、規定で……」
「でも、事件かもしれないじゃないですか!」
「警察には確認済みです」
淡々とした声。
「事件性はないとのことです」
世界が凍る。
「……そんな」
机が空になる。
椅子だけが残る。
そこに座っていた人間が、最初から存在しなかったように。
周囲は普通に仕事を続けている。
誰も騒がない。
誰も怒らない。
誰も悲しまない。
まるで、重要ではない出来事のように。
梓の喉が詰まる。
(違う!)
(あの人は、こんな消え方をする人じゃない)
空席を見つめる。
昨日までそこにいた。
確実に。
夜のコーヒー。
静かな声。
「大丈夫だよ」という言葉。
全部、本物だった。
なのに。
世界はそれを認めない。
膝が震える。
泣くこともできない。
胸の奥に、
黒い穴のようなものが開く。
そして初めて思う。
(……戻ってこない)
恋が始まる前に終わった。
告白もしていない。
触れてもいない。
名前すら呼んでいない。
何もない。
なのに、全部失った。
机の上に、最後に残されたものがある。
付箋。
青木の字。
「ログ確認お願いします」
それだけ。
ただの業務連絡。
だが、その文字が
存在していた証の最後の欠片だった。
梓はそれを握り潰す。
紙が歪む。
破れない。
喉の奥から、かすれた声が出る。
「……返して」
誰に言ったのか分からない。
答えるものはない。
空席だけが、静かにそこにある。
そして梓は知る。
恋は終わることがある。
人は消えることがある。
だが。
理由がない喪失は、
人を壊す。




