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祈りの残響(ECHOES OF PRAYER)――都市怪異を修正する祓屋の記録  作者: みえない糸
第3章 修正できなかった世界
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第29話 忘却は、やさしくない その1 再生

 目を開ける前から、音があった。


 規則的な音。


 カチ、カチ、カチ。


 金属ではない。

 プラスチックでもない。

 もっと乾いた、軽い音。


 キーの音。


 梓はまぶたを開く。


 蛍光灯。

 白い。

 均一な光。


 天井が近い。


 オフィスだ。


 自分の席に座っている。


 両手はキーボードの上。


 勝手に動いている。


 指が、止まらない。


 画面にはコードが流れている。

 見覚えのあるフォーマット。

 コメントの書き方。

 インデントの癖。


 自分の書いたコード。


 息が詰まる。


(……違う)


 これは思い出ではない。


 現在だ。


 完全に、ここにいる。


 指を止めようとする。


 止まらない。


 手首を持ち上げようとする。


 持ち上がらない。


 身体は自分のものなのに、操作権がない。


 カチ、カチ、カチ。


 周囲の席からも同じ音がする。


 だが、誰も喋らない。


 人はいる。


 だが存在感が薄い。


 紙をめくる音も、椅子のきしみもない。


 全員が同じ速度で、同じリズムで打っている。


 機械のように。


 背筋が冷える。


 画面の端に時刻が表示されている。


 02:03


 数字が、微動だにしない。


 時計が止まっている。


 それでもキーボードの音だけは進む。


 カチ、カチ、カチ。


 梓の喉が締まる。


 この時間を知っている。


 青木が消えた時間だ。


 視界の端に、別の机がある。


 青木の席。


 そこだけ、妙に暗い。


 椅子がある。


 PCもある。


 電源も入っている。


 だが、誰も座っていない。


 それなのに——


 Enterキーだけが動く。


 沈む。

 戻る。

 沈む。

 戻る。


 指はない。


 見えない。


 だが確実に押されている。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 呼吸が浅くなる。


 声を出そうとする。


 出ない。


 音が許可されていない。


 画面が一瞬だけ滲む。


 ウィンドウが開く。


 祀.txt


 ファイルサイズ:0


 更新日時:現在


 開いてはいけない。


 その確信がある。


 なのに、カーソルが勝手に移動する。


 クリック。


 ファイルが開く。


 空白。


 何もない。


 そのはずなのに。


 文字が浮かぶ。


 滲むように。


 紙に血が染みるように。


 ゆっくりと。


 〈——我を忘るるな〉


 喉がひくりと動く。


 心臓が速くなる。


 だが身体は動かない。


 画面が勝手にスクロールする。


 次の行。


 〈——封を解くな〉


 次。


 〈——理を越えるな〉


 手が震える。


 いや、震えていない。


 震えたいのに震えられない。


 恐怖の自由がない。


 背後で、椅子が引かれる音がする。


 ギィ。


 ゆっくり。


 近づく足音。


 止まる。


 肩のすぐ後ろ。


 誰かが立っている。


 振り返れない。


 視界の端に、影だけが映る。


 白い袖。


 細い指。


 机に手を置く。


 指がキーボードの上に重なる。


 冷たい。


 氷のようだ。


 そのまま、Enterキーを押す。


 カチ。


 画面が変わる。


 黒いウィンドウ。


 コマンドが入力されている。


 restore_ritual();


 invoke_prayer();


 update_memory();


 キー入力の音がない。


 なのに文字が増える。


 勝手に。


 そして。


 カーソルが点滅する。


 入力待ち。


 見えない手が、ゆっくり動く。


 admin=aoki;


 その瞬間。


 背後の気配が、顔のすぐ横まで寄る。


 耳に触れそうな距離。


 息がない。


 温度がない。


 ただ存在だけがある。


《……君は》


 声がする。


 直接、脳の内側に。


《この続きを見たいですか》


 視界が歪む。


 涙が出ているはずなのに、頬が濡れない。


《彼が消えた瞬間を》


 拒否したい。


 全力で。


 だが、思考が言葉にならない。


 沈黙は同意として扱われる。


《そうですか》


 音が消える。


 完全な無音。


 空気が真空になる。


 次の瞬間。


 画面が白く弾ける。


 火。


 風。


 地下。


 銅線。


 祈祷。


 女の瞳。


 青木が叫んでいる。


 声は聞こえない。


 口だけが動く。


 助けを求めている。


 こちらを見ている。


 まっすぐ。


 手を伸ばす。


 だが、届かない。


 距離が無限にある。


 彼の背後に、巨大な影が立つ。


 顔がない。


 形もない。


 ただ、そこにいる。


 影が、青木の肩に手を置く。


 その瞬間。


 青木の身体が、内側から崩れる。


 砂のように。


 光の粒のように。


 崩壊ではない。


 分解。


 データの削除のように。


 何も残らない。


 最後に、彼の目だけが残る。


 梓を見る。


 驚きでも恐怖でもない。


 諦め。


 そして。


 安心。


 助かった、という表情。


 その目も消える。


 完全な空白。


 画面が元に戻る。


 02:03


 誰もいない席。


 Enterキーだけが動く。


 カチ。


 カチ。


 カチ。


 背後の存在が、静かに囁く。


《これが、あなたの原点です》


 声が柔らかい。


《何もできなかった瞬間》


 指が勝手に動く。


 キーボードに触れる。


 入力される。


 delete aoki;


 全身が凍る。


 止めたい。


 叫びたい。


 だが操作権がない。


《人は》


 声が優しくなる。


《救えなかった相手を、消したことにします》


 Enterキーが押される。


 カチ。


 画面が空白になる。


 青木の席も、最初から存在しなかったように整う。


 机が一つ減る。


 違和感がない。


 誰も気づかない。


《ほら》


《楽でしょう》


 闇がにじむ。


《消えたい理由は、もう十分あります》


 完全な沈黙。


 そして。


《次を見ましょう》


 世界が崩れる。


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