第28話 揺らぎ その5 観測者
暗闇の中で、何かが笑っていた。
声ではない。
振動でもない。
ただ「楽しんでいる」という感情だけが、空間に満ちている。
梓は自分が立っているのか、横たわっているのかすら分からない。
身体の感覚が薄い。
視界だけがある。
いや、視界ですらない。
“見せられている”。
闇の奥で、灯りが一つともる。
揺れる。
橙色。
油の匂い。
時代が違う。
石畳。
木造の町。
夜なのに、やけに明るい。
炎。
建物が燃えている。
人が走る。
叫ぶ。
転ぶ。
誰かが斬られる。
音は遅れて届く。
肉を裂く湿った音。
骨が当たる鈍い音。
梓は反射的に目を逸らそうとする。
だが逸らせない。
《これは天正十年》
声が落ちる。
畑中の声ではない。
老医師の仮面の下にあった、別の声。
乾いている。
感情がない。
ただ淡々と説明する。
《焼き討ちの最中ですね》
人が家から引きずり出される。
子供。
女。
老人。
武装した男たちが笑いながら斬る。
理由はない。
略奪でも報復でもない。
ただ、そこにいたから。
《人は、簡単に消えます》
声は楽しそうでも悲しそうでもない。
研究者のようだ。
《名前も、血筋も、願いも、記憶も》
火の粉が舞う。
《すべて燃えます》
場面が切り替わる。
今度は室内。
薄暗い。
畳の上に人が座らされている。
縄で縛られている。
正面には、僧。
静かに祈っている。
その後ろに、鏡。
大きな銅鏡。
火の光が揺れて、鏡面が歪む。
《祈りはよく集まります》
僧の背後の影が動く。
誰も触れていないのに、鏡の表面が波打つ。
縛られた男が叫ぶ。
「助けてくれ……!」
祈りが止まる。
鏡の中から、手が出る。
黒い。
細い。
人の形をしていない。
男の顔を掴む。
叫びが途切れる。
身体が鏡に吸い込まれる。
波紋が広がる。
そして、静止。
畳の上には何も残らない。
《これが便利でして》
声が近づく。
《抵抗しない》
一拍。
《自分で消えたいと願うまで、待てばいい》
梓の喉が焼けるように乾く。
声を出そうとしても出ない。
視界が再び変わる。
雪。
江戸の町。
凍えた女が道端に座っている。
赤子を抱いている。
動かない。
凍死寸前。
誰も助けない。
《冬は良い》
声が穏やかになる。
《弱ります》
女の前に、僧が立つ。
先ほどと同じ鏡。
女はすがるように手を伸ばす。
「お願い……この子だけでも……」
鏡が光る。
女の表情が歪む。
懺悔。
後悔。
自責。
自分を責める言葉が止まらない。
そして。
女が呟く。
「……いっそ……消えてしまえたら……」
その瞬間。
女と赤子が消える。
音もなく。
《ほら》
声が笑う。
《自分で望みました》
梓の胸が強く締め付けられる。
これは虐殺ではない。
もっと悪い。
責任を押し付けている。
《私は何もしていません》
優しい声。
《願いを叶えただけです》
闇が揺れる。
《何百年も》
一瞬だけ、巨大な何かが見える。
鏡。
無数の顔が映っている。
泣く顔。
怒る顔。
怯える顔。
諦めた顔。
すべて梓を見ている。
《安土桃山の頃から》
《江戸も》
《明治も》
《戦争も》
爆発音。
焼け野原。
防空壕。
瓦礫の下の手。
《時代は変わっても》
声が柔らかくなる。
《人は同じです》
一拍。
《自分を責める》
《後悔する》
《消えたいと願う》
そして、はっきりと言う。
《だから、消せる》
闇が一気に梓に近づく。
《あなたは、とても良い》
温度がない。
《悩み方が、深い》
《自分を責める量が多い》
《他人のために苦しめる》
声が楽しそうになる。
《素晴らしい素材です》
梓の視界に、映像が流れ込む。
水谷。
血。
倒れる。
愛音の問い。
——何のためにそんなことしてるの?
胸が裂けそうになる。
《ほら》
《もう答えが出ています》
声が囁く。
《あなたは、失敗した》
《守れなかった》
《判断を誤った》
《誰かを傷つけた》
逃げ場がない。
《だったら》
優しく。
《消えた方が、楽でしょう》
梓の心の奥に、冷たいものが落ちる。
確かにある。
消えたいという願い。
罪悪感から逃げたいという願い。
《大丈夫》
《あなたは安心して消えます》
《痛みはありません》
《責任もありません》
《もう何も考えなくていい》
暗闇が近づく。
包み込む。
温かい。
まるで子宮のような、原初の安心。
《さあ》
《言ってください》
声が微笑む。
《消えたい、と》
梓の唇が震える。
言葉になりかける。
そのとき。
遠くで、別の音がした。
金属音。
硬いものが打ち合わされる音。
微かな、しかし確かな現実の音。
《……おや》
声がわずかに変わる。
《まだ、抵抗がありますか》
闇が揺れる。
《構いません》
《時間はたくさんある》
冷たい断言。
《あなたが自分を許すことはないでしょうから》
一拍。
《いずれ必ず、望みます》
最後に、低く。
《それが人間です》
完全な闇。




