第28話 揺らぎ その4 鏡の医師
畑中総合精神医療センターは、夜でも明るかった。
震災後の仮設照明とは違う、安定した光。
自家発電を備えているのだろう。
だが、その明るさが逆に不気味だった。
周囲の街が暗い分だけ、ここだけが浮いて見える。
梓は入口の前で一度立ち止まる。
病院という場所は、常に境界が曖昧だ。
健康と病気。
正常と異常。
現実と妄想。
そして時に――
生と死。
自動ドアが開く。
消毒液の匂いが流れ出た。
受付には夜勤の事務員が一人。
疲れた顔だが、異常はない。
「面会ですか?」
「警察関係です」
梓は高峰から預かった証明書を提示する。
事務員はそれを受け取り、じっと見た。
理解しているのかどうか分からない表情。
「あ、はい……少々お待ちください」
内線を取る。
会話は普通だった。
だが、妙にゆっくりだ。
言葉を選んでいるのではない。
思い出しながら喋っている。
(……記憶の固定が弱い)
梓の指先がわずかに動く。
事務員は受話器を置いた。
「院長が対応されます」
「ありがとうございます」
エレベーターに案内される。
扉が閉まり、上昇を始める。
梓はコートの内側で量子暗号札に触れた。
反応はない。
八鍵も静かだ。
(……おかしい)
ここまで濃い影響が出ているのに、発信源が掴めない。
エレベーターが止まる。
扉が開く。
院長室の前には、すでに男が立っていた。
老齢。
白髪。
背筋は伸びている。
柔和な笑み。
「真名井さんですね。畑中です」
声は穏やかだった。
医師特有の、相手を落ち着かせる声。
「夜分に申し訳ありません」
「いえいえ。こちらこそ、助かります」
違和感はない。
本当に、ない。
院長室へ通される。
室内は整然としていた。
資料がきちんと並び、埃もない。
長年の医師の部屋というより、
「医師の部屋の見本」のようだった。
「今回の件ですが……」
畑中は深くため息をつく。
「私も困惑しています」
その表情は自然だった。
「患者が消えた。ですが、誰が消えたのか特定できない」
梓は黙って聞く。
「カルテはある。入院履歴もある。ですが、顔が思い出せない」
眉間に皺が寄る。
「医者として、こんなことは初めてです」
言葉に嘘はない。
少なくとも、嘘をついている反応はない。
(……被害者と同じ)
演技ではない。
本当に「分からない」のだ。
「警察の方々も同じ状態でして」
畑中は続ける。
「記録はあるのに、実感が伴わない。まるで……」
一瞬、言葉を探す。
「最初からいなかったような」
その言葉に、梓の胸がわずかに締め付けられる。
「現場を見せていただけますか」
「もちろんです」
即答。
立ち上がる。
廊下は静かだった。
消灯時間を過ぎているのだろう。
遠くでナースコールが鳴り、すぐ止まる。
病院特有の、抑圧された生活音。
梓は歩きながら八鍵に意識を向ける。
――無反応。
(どこにいる)
通常なら、残響は歪みを伴う。
気配。
ノイズ。
因果の乱れ。
だがここには、何もない。
あまりにも整っている。
そのときだった。
甲高い悲鳴。
廊下の奥から。
女性の声。
畑中と梓は同時に走った。
病室の前で看護師が震えている。
「消え……消えちゃう……!」
中へ入る。
ベッドの上。
患者がいた。
だが――
輪郭が不安定だ。
像がぶれるように揺れている。
テレビのノイズのように、存在が欠ける。
「やめて……」
患者の声が歪む。
「いや……消えたくない……!」
梓の視界に、黒い影が映る。
患者の背後。
鏡のような歪み。
そこから何かが伸びている。
(……いる)
初めて、反応。
八鍵を構える。
「下がってください」
畑中に言う。
影は人型に近いが、定まらない。
顔がない。
だが見ているのは分かる。
感情は――
楽しんでいる。
「あなたは――」
祓詞を発声しようとした瞬間。
背後で空気が変わった。
冷たい。
振り返る前に、理解する。
(違う)
影ではない。
本体は――
「……残念です」
すぐ後ろ。
耳元。
畑中の声。
先ほどまでの穏やかさはない。
「あなたは、とても良い素材だったのに」
梓が振り向く。
畑中の顔は笑っていた。
だが目が違う。
深い。
底がない。
水面に映った顔のように揺れている。
「悩み。罪悪感。喪失。自己否定」
指が梓の肩に触れる。
氷のように冷たい。
「どれも、よく熟しています」
梓は八鍵を振ろうとする。
だが、動かない。
身体が重い。
視界が歪む。
「安心してください」
優しい声。
「あなたは消えません」
一拍。
「自分で消えたいと願うまでは」
床が溶ける。
重力が消える。
光が引き伸ばされる。
患者の悲鳴が遠ざかる。
最後に見えたのは。
畑中の顔ではなかった。
別の顔。
古い時代の男。
細い目。
嘲笑。
《我が名は――果心居士》
その名が、頭の奥で響いた。
そして。
闇。
意識が切れる。
⸻
静寂。
深い、深い闇。
だが完全な無ではない。
遠くで声がする。
泣き声。
怒鳴り声。
罵声。
懇願。
すべてが混ざり、意味を持たない。
そこへ、静かな声が落ちる。
《さあ》
誰かの声。
《あなたの番です》
梓は、自分の心臓の音を聞いた。
やけに大きい。
《逃げてもいい》
優しい声。
《消えたいと願えば、楽になりますよ》
暗闇が揺れる。
映像が生まれる。
見覚えのある部屋。
古いオフィス。
蛍光灯の白い光。
キーボードの音。
そして――
背中。
振り返らない男。
《後悔は、消えません》
声が近づく。
《だから、消えるのです》
梓の視界が固定される。
逃げられない。
ただ見せられる。
過去。
《さあ》
《もう一度、始めましょう》




