Rの食卓
ある日の夕飯時。陽人が突然、動き出す――
お題箱にいただいたお題作品です。
きっかけは、二人が一緒に暮らして一年ほど経った頃、食事中に、陽人が思い詰めた様子で言い出したことだった。
「なぁ、怜司」
「なんだ?」
「卵焼き……しょっぱくね?」
そう指摘され、怜司は自分の焼いた卵焼きに目を落とす。味付けは少量の白だしと塩こしょう、実にシンプルで、そしていつも通りのうつくしい卵焼きだ。箸でつまんで口に放り込む。出汁と卵の味のバランスも悪くない。自分としてはいつも通りの卵焼きだった。
「……いつも通りに作ったつもりだが」
「いや、いつも通りだけどさ……いつも通りがしょっぱいんだよお前の場合」
その一言に怜司は少しむっとする。陽人は比較的こってりがっつり、濃いめの味付けの料理を作るので、バランスを取るべく自分はできるだけ薄味を心がけていたというのに。
「お前が言うほどしょっぱいとは思えないが」
「あ、えーと……だめだ、俺の言わんとすることが伝わってない。つまり俺は、卵焼きは本来しょっぱくないってことを言いたいの! お前が作ってるのはだし巻き!」
「ぬかせ、だし巻きはもっと薄い出汁を多く使うんだ。なんなら今度作ってやる。これはれっきとした卵焼きだ」
うぬう、と陽人がうなり、いやでもこれ白だし入ってんだろ、と言い出した。怜司は黙って頷く。醤油を入れると卵焼きの色自体が茶色っぽくなって嫌なのだ。
「出汁で味付けしたらだし巻きだろ? 本来卵焼きっていうのは、もうちょっとこう、ふわっとしてて甘いやつでだな……」
「サイ、それは伊達巻だ。あれは正月に食べるもので、日常的に食卓に並べるものじゃない」
おせちに入っている、由来は西洋のトルタ・デ・ラランジャだと言われる料理だ。魚のすり身を使うが製法はカステラに似ており、あれはあれでそこそこ好物である。ただ、普段からごはんのおかずにするようなものではない。
怜司の言葉に、陽人は首をかしげ、まるで未知の外国語を口にするようなイントネーションで、ダテマキ、と繰り返した。
「お前まさか……伊達巻を知らんのか?! 僕がおせちに入れてただろうが! 黒豆と栗きんとんと一緒に!」
「ああ! あのおやつみたいなのか! いやー、俺あれは完全にお前が俺のためにおせちに盛り込んでくれてるおやつだとばっかり……って、いや確かに俺伊達巻知らなかったけど! あれじゃないって!」
普段の卵焼きのことを言ってんの俺は、と、陽人は強固に主張する。怜司は久しぶりに、この幼なじみの言わんとすることに理解が追いつかず、どういうことだ、と聞き返した。
「どういうことって……だから、俺の知ってる卵焼きは、こう……砂糖とかみりんとか入ってて、甘いやつなの」
「砂糖やみりんを加えてしまったら甘くてご飯のおかずにならないだろうが」
いやそこは加減の問題でだなと言いながら、陽人が食卓から立ち上がる。まさか食事を拒否する気か、と怜司が口を開きかけたその時、陽人が一言、らちがあかん、とつぶやいた。
「だいたい、お前と口で争っても絶対勝てないんだから最初から実演すればよかったんだよな……怜司、ちょっと待ってろ、俺の言うところの卵焼きを今作るから」
そう言って陽人はキッチンに移動し、なにやら作業を始めた。こうなっては止めても無駄だ。怜司は、他のおかずが冷めることを気にしながら、陽人の作業を待った。しばしの静寂。やがて、陽人が大まじめな顔をしてキッチンから戻ってきた。手には、卵焼きの載った皿を持っている。
「はい。これが俺の言ってる卵焼き。食べてみ?」
陽人に促されて、怜司はその卵焼きに箸をつける。見たところ、自分の卵焼きと変わりない。口に入れてみて――怜司は愕然とする。
「……甘い」
「いや甘いよ卵焼きだもん。だから最初から言ってたじゃん、卵焼きは甘いものなの」
そんな馬鹿な、と怜司は思う。自分が昔から食べてきた卵焼きは、確かに自分の作ったようなしょっぱい味付けのものだったはずだ。なのにこれはどうだ、確かにしょっぱさがないわけではないが、それよりもふわりとした甘みが勝っている。まずくはない。むしろおいしい方だと思うがしかし。
「これは……ご飯のおかずになるのか?」
「ちょ、何言ってんのなるに決まってるじゃん。お前晩飯のおかずにカボチャの煮付け出したり、豚汁にサツマイモ入れたりするだろ。あれと同じ分類だよ」
言われてみれば。怜司は反論できずに黙り込む。確かにカボチャやサツマイモをおかずとして食卓に提供したことがある。しかしならば、今まで自分が卵焼きだと思って食べてきたものはなんだったというのか。
突然同居人と文化が違うことをたたきつけられ、怜司はひたすら黙り込んだ。どちらもまずくはない。むしろおいしい。しかし自分が卵焼きと認識でき、かつ作ることができるのは今まで通りの卵焼きだ。今食べているものではない。ではこれをなんと呼べばいいのだろう?
「ちょ、怜司? れいじー? 眉間のしわがハンパないんだけど? え、どうしたの?」
「……概念の崩壊だ。むしろ今までお前はどんな気持ちで僕の卵焼きを食べてきたんだ……? もしこれが卵焼きであると定義するなら、僕の作っているものはお前にとって卵焼きではなかったことになる。なら、僕はお前にずっとこんな思いをさせていたというのか……?」
突然眉間にしわを寄せ、概念だの何だの言い出した同居人を前に、陽人は面食らう。陽人としては怜司の卵焼きも「卵焼き」であり、たまには甘いのが食べたいと言いたいだけだったのだが、彼にとってはかなり大きなカルチャーショックだったようだ。これはフォローしておかないと後が怖い。最悪、二度と卵焼きが食卓に上らない可能性も出てくる。
「あー、えっとさ、卵焼きと味噌汁だけは、どうしても家によって味が違うもんなんだよ普通。だから、まあ確かにさっきはお前のはだし巻きだとか言ったけど、あれも卵焼きで、これも卵焼きなの。ただ、お前んちの卵焼きと、俺んちの卵焼きで味付けの文化がちょっと違ったってだけでさ」
「み、味噌汁まで違うのか?!」
そっちを拾うのかよ、と陽人は胸中で嘆息する。そういえば、二十年以上そばにいるが、怜司が陽人の家に遊びに来ることはほとんどなく、来ても夕飯の時間には帰宅していた。逆に陽人はよく怜司の家に遊びに行ったし、夕飯もごちそうになったことがある。そもそも陽人以外に近しい人間がいない怜司が、家によって料理の味付けが違うなどという事実を知るはずもなかったのだ、と、陽人は今更ながら気づいた。
「ま、まあ多少はな。でも俺が言いたいのは、別にお前のが卵焼きじゃない何かで、俺のが卵焼きってわけじゃなくて、一応どちらも一般的に言う卵焼きだってこと。ただ、たまにはおふくろが作ってたみたいな味つけの卵焼きが食べたいなーってだけの話。別にお前が今まで卵焼きだと思ってたものの概念をひっくり返そうとしたわけじゃなかったんだけど……」
そう言って、陽人は怜司の顔色をうかがう。眉間のしわはずいぶんと減り、怜司の表情はだんだんいつもの仏頂面に戻っていく。どうやら彼の中でも、どうにか納得がいったらしい。
「そういうことか……僕もまだまだ勉強不足ということだな。わかった。今度からこういう卵焼きも作れるように努力しよう。ただ、加減がよくわからんから最初は失敗するかもしれんが……」
素直にそう言う怜司の言葉を聞きながら、陽人は思わずニヤニヤしてしまう。怜司が自分のために努力すると言ってくれた、それだけで、勇気を出して卵焼きの味付けについて指摘した甲斐があるというものだ。
「おいサイ、何をニヤニヤしている。気でもふれたか?」
「ち、ちがわい! ほんっと怜司お前一言余計だよなぁ。俺がささやかな幸せに浸っているというのに」
幸せ、と怜司がオウム返しにつぶやいたので、陽人はそのつぶやきに応えるように、だってさ、と言った。
「自分の大好きな人が、自分のために努力するって言ってくれてんだよ? 日常のささやかな幸せ以外の何物でもないね」
そう言って笑うと、怜司は一瞬あっけにとられたような顔をした後、すぐにほのかに赤くなった。
「全く……適当なことを」
「適当じゃねーよ、素直な気持ち。じゃあ、今度の卵焼き、期待してるから」
その一言を最後に、二人は夕飯へと戻った。冷めかけているおかずたちと、二種類の卵焼きを前に、二人の夜は更けていった。
怜司の次の休日に、陽人好みの卵焼きを作るべく奮起してしまった怜司によって、陽人がほとんど一日中卵焼きの試食をさせられることを、彼はまだ、知らない。
お題は「BSCの二人で、卵焼きの味付けについていちゃいちゃ討論会」でしたw
お題下さった方、ありがとうございました。いちゃいちゃ……してるかなこれ(
怜司は真面目なので、どうでもいいことがこんな風になってしまうことが多々あるんじゃないかな、と思います。
ちなみに、先ほどの「Hの食卓」と合わせて、タイトルは「Dの食卓」のもじりです。実はやったことないんですがね……どっかにないかな。