Hの食卓
二人が一緒に暮らす上で交わした約束。それは――
二人が晩御飯一緒に食べるきっかけのお話。
「よっし、書類はこんなもんかな。怜司、身元保証人の書類間に合いそう?」
「ああ。父さんが間に合うように送ると言っていた。それがそろえば、あとは不動産屋に行くだけだな」
藤村家の居間で、怜司と陽人は二人で借りる賃貸に関する書類の最終確認をしていた。あとは、今日速達で送った、と怜司の父親が言っていた、怜司の身元保証人の書類がそろえばそれですべてが完了する。
「いよいよ一緒に住んじゃうわけかー……長いこと一緒にいるけど、お前んちに時々泊まりに来るぐらいだったからなぁ。なんか不思議な感じ」
「何をぬかすか馬鹿たれ、そもそもお前が決めたことだろう。僕だってもう家を出ると父さんにもお手伝いさんにも言ってしまった。書類までそろえさせて、今更嫌だと言ってもどうしようもないからな僕には」
いや、嫌なわけないじゃん、と陽人がこともなげに言うので、怜司は少しばかり恥ずかしくなってしまう。それをごまかすためについ、余計なお説教で口数が多くなった。
「言っておくが、事務所スペースの掃除はお前が責任をもってやる、共有スペースに私物を散らかさない、人を呼ぶときは依頼人以外はあらかじめ断る、それぐらい節度をもて。あと、家賃も半分払う約束だ。僕はお前を飼うつもりはないからな」
フン、と鼻を鳴らす怜司に、陽人が、犬扱いすんな、と言い返した。
「全部わかってますよーだ。自分の部屋は自分で片付ける、これもお前が言ってただろ。でも、なんかお前ばっか要求多くてずるいから、俺からも一つお願い」
陽人がそんなことを言い出したので、怜司は怪訝な表情で陽人を見た。この男は、滅多に自分にお願いなどしない。すげなく断られることを知っているからだ。怜司の顔を見て、陽人は、別に難しいことじゃねえよ、と言って笑った。
「毎晩、晩飯は一緒に食う、ってことにしない? いや、もちろん飲み会とかの時はいいから。そういう時は連絡して。で、晩飯準備するのも当番制でよろしく。これも無理な時は連絡して交代。どう?」
「はぁ? 何故だ?」
その反応は地味に傷つくんですけど、と陽人がしょぼんとした様子で言う。しかし、怜司には何故そうなるのか、その理屈が理解できなかった。ただ一緒に住むだけだ。別に家族というわけではない。実際、怜司はほとんど一緒に住んでいたと言っても過言ではないお手伝いさんと、食事を共にしたことはない。
「僕たちは一緒に住むというだけで、別に家族になったわけじゃないし、これから一生そうなれるわけでもない。お前と一緒に毎日晩飯を食う理由がない」
怜司の言葉の後、長い沈黙が続いた。不思議に思って陽人を見ると、何故か彼は心底ショックだという表情をしていた。
「サイ? どうした? 一体何をそんなに……」
「お前本気? 一緒に住んでるのに、一人ずつ晩飯作って一人ずつ食うのが普通なの? 手間もかかるしなんてか寂しいじゃん。それは理由になんないの?」
陽人が悲しげな目をしてこちらを見つめてくる。怜司としてはごく常識的な発言をしたつもりだったので、かなり戸惑った。一体何がいけなかったというのだ。どうして、そんな目で見られなければならない?
「家族じゃない人間と、毎日晩飯を一緒に食う方が不自然だろう?」
「あーもー鈍感! そこ! 俺が傷ついてんのはそこの認識! 確かに、俺とお前は家族にはどう転んでもなれないよ。男同士だし、なんていうか、もうすでにそういう次元にない関係だし……だから、正直勝手に決めてきたけど断られる覚悟もしてたの。だから、お前がいいって言ってくれたときすっげえ嬉しかったんだよ? なのにそんな、家族じゃない家族じゃないって……」
陽人の顔に、昏い陰が差したのを見た。こういう顔をする時の彼はたいてい、悲しみと怒りの間を行ったり来たりしているときだ。まずい、これ以上喋らせると――
「そりゃ家族じゃないよ。でも、俺はお前のことずっと好きで……ずっと一緒にいるつもりで……代償はあったけど、それが嘘じゃなくなって……お前にとっても俺は特別なんだってちょっとうぬぼれてた。けど、そんな風に言われたら、悲しくなっちゃうだろ……家族じゃないし、家族にはなれない。そんなの俺だって解ってるよ! でも……俺にとっては、それは晩飯を一緒に食わない理由にはならない。俺は……ちょっとでも怜司と共有する時間がほしいの。出ないとお前、きっと一緒に住んでたって、俺のこと半分わすれ……たり……とか……」
陽人の目にじわじわっと涙が湧く。案の上だ、と怜司は思った。こういうとき、この男は大抵悲しみの方が勝って泣き出してしまう。ただ、彼がこんな風に子どもっぽい態度を取るのは怜司の前だけなので――「家族」の前ではどうか知らないが、少なくとも怜司が遊びに行った犀川家での陽人は、ちゃんと「お兄ちゃん」だった――おそらく他人は知らない。そして、こんな風に泣かれると自分がひどく動揺してしまうことも。
「わかった! わかったから泣くな! いい年して、そんなことぐらいで……」
「そんなことぐらいじゃない! 大事なこと! 泣くぐらいのことなの! 俺はお前と、毎日ちゃんと喋りたいの!」
今までの記憶が、一気によみがえった。いつでも、怜司怜司とついてきた、過去の陽人たち。自分に対しては、幼稚園の頃から一貫して多弁だった。就職してからは一緒にチームを組み、事件をいくつか解決した。その間も、陽人は自分に隠し立てをしたことなど一切なかった。むしろ積極的に、どうでもいいことまで全部喋っていた。今までは、隠し立てをしない相棒はやりやすくてありがたいとしか思っていなかったが、今思えばそれは、陽人にとって好意の証だったのではないか。
それに――怜司はもう一つの答えにたどり着く。目の前の無邪気な男から、そもそも「家族」を引き離したのは自分ではないか。普通の「家族」でいられなくしてしまったのは自分だ。なら――それぐらいのことで、贖いになるとは思っていない。家族にはなれない。それは圧倒的な事実だ。しかし、この男がそう望むなら。それに答える義務が、自分にはあるのではないか。怜司はそうやって、自分の動揺を収束させた。それと同時に、少しだけ自分が嫌になる。こんな風に、訳のわからない理屈をこねなければ、相手の要求にも応えられないだなんて。ただ、怜司もそれを口に出すほど無神経ではなかった。
「……お前の気持ちはよくわかった。情報の共有はお互いのためにもなるだろうし、毎日自分で晩飯を作らなくてよくなるのもまあ……悪くない。わかった。晩飯の件はそうしよう。ただ、僕の帰宅時間は一定しないから、炊飯だけはお前に任せる。それでいいか?」
半泣きだった陽人が一瞬あっけにとられた表情をし、それからじわっと赤くなった後、嬉しそうに、笑った。
「わかった。じゃあ、米は俺の担当ね。おかずは当番、よし、決まり!」
楽しみだなー俺怜司の和食好きだからなー、と、急に嬉しそうにし出した陽人に対し、怜司は半眼を向ける。まさかこいつ。
「お前、嘘泣きじゃないだろうな?」
「なんのことかな? だいたい、俺が嘘泣きなんて高度な技できるわけないじゃん。そんなのお前が一番よく知ってるでしょ」
確かにそうだ。そんなことができる男ではない、と怜司は思い直す。そして、まあ一人分も二人分も同じか、それに二日で一回で良くなるし、作り置きのおかずを作っておけばもっと楽だ、と、自分の中で深刻になってしまった理由を、同じく理詰めで軽くした。
こうして、二人の間で「晩飯は必ず一緒に食う」という約束が交わされた。これが案外悪くない、と怜司が思うのは、まだまだ先の話になる。
まあ二人の認識としてはこんな感じです。
怜司はそもそも「正しい家族」がよくわかってないので、こんな風に空回ります。
一方陽人にとって怜司は家族以上の存在なので、一緒に食事することに疑問はないし、むしろ怜司と共有する時間を少しでも持ちたい、みたいな。
しかし怜司はホント、素直じゃない(笑)




