第9話
王都大闘技場のすり鉢状の観客席から、地鳴りのような熱狂が降り注いでいた。
石造りの円形リングの中央に立つ私の肌を、熱気を帯びた風が撫でていく。
観客席を見渡せば、物珍しさに集まった市民たちだけでなく、色とりどりの正装に身を包んだ貴族院の議員たちや、警備隊の隊員たちの姿がひしめき合っていた。
「おいおい、本当にあの華奢な令嬢が戦うのかよ!」
「相手は地下闘技場で何十人も病院送りにした怪物だぞ!?」
「いくらなんでも無茶だ、死んじまうぞ!」
ざわめく観客たちの視線が、リングの向こう側――重厚な鉄格子の扉へと注がれる。
ギギギ、と軋んだ音を立てて扉が跳ね上がった。
現れたのは、もはや人間というよりは巨大な岩石の塊だった。
身長は二メートル二十センチを優に超えているだろう。
毛むくじゃらの太い四肢には黒革の鎧が巻き付けられ、丸太のような肩の上には、大人が二人がかりでようやく持ち上げるような、巨大な鉄槌が無造作に担がれている。
地下闘技場で無敗を誇る狂乱の代理闘士――『鉄槌のゴドフロワ』。
「ぶひゃははは! やれ、ゴドフロワ!」
リングサイドの最前列から、ワイングラスを片手に持ったモーリスの甲高い下品な笑い声が響き渡った。
「その生意気な筋肉女の四肢を叩き折れ! 二度と立ち上がれないようにしてやれば、俺の勝ちだ! 報酬は弾んでやるぞ!」
「まあ、モーリス様ぁ、あまり無残な姿にしては可哀想ですわぁ」
隣に座るベリンダが、頭と腕に巻いた包帯をわざとらしく撫でながら、扇子の陰で嗤う。
「奥様、今からでもモーリス様に土下座して靴を舐めれば、命だけは助けていただけますわよ? うふふ、無様な姿を晒す前に降伏なさったら?」
二人の下品な煽り声を聞き流しながら、私は首を左右に軽く傾け、肩の力を抜いて息を整えた。
手加減の必要がない。家具を壊して弁償に頭を抱える心配もない。
思う存分、全身の力を解放できる舞台。そう考えただけで、唇の端が自然と吊り上がってしまう。
「ヒルダ」
リングサイドの自陣の柵越しに、低い声が届いた。
腕を組んで佇むベルンハルトだ。その紫水晶の瞳には、一切の動揺も不安もなかった。
「相手の質量は君の三倍以上だ。まともに鉄槌を受け止めれば、いくら君の体幹でも骨が軋むぞ」
「あら、ベルンハルト様。私をどこのお嬢様だと思っておいでですの?」
私は振り返り、不敵に笑ってみせた。
「北方の冬山で、猛スピードで突進してくる成体のヒグマを相手に、正面から力比べなんてする馬鹿はいませんわ。……大男の倒し方なら、十歳の頃に父から叩き込まれております」
「……そうだな。愚問だった」
ベルンハルトはふっと口元を緩め、私に向かって頷いた。
「信じている。君の背筋の美しさを、満天下の観衆に見せつけてこい」
「ええ、見ていてくださいまし!」
ジャァァァァンッッ!!
貴族院の立会人による、試合開始を告げる重々しい銅鑼の音が響き渡った。
「神前名誉決闘裁判、開始ッ!!」
「死ねやァァァッ、小娘がァッ!!」
咆哮一閃。
ゴドフロワが巨体を揺らし、闘技場の石畳を踏み砕かんばかりの勢いで突進してきた。
振り上げられた巨大な鉄槌が、空気を切り裂く轟音を立てて私の脳天へと一直線に振り下ろされる。
ドガァァァァンッッ!!
鉄槌がリングの床を直撃し、分厚い石板が蜘蛛の巣状に砕け散って破片が四方へ弾け飛んだ。
観客席から悲鳴が上がる。
だが――そこに私の姿はなかった。
「あ……? どこへ消えやがっ――」
「遅いわよ」
ゴドフロワの真横。
鉄槌が地面に激突するわずか数瞬前、私は半歩だけ右へスライドし、風圧を髪にかすめさせながら、すでに相手の懐の死角へと滑り込んでいた。
「実家の山で暴れ回っていた手負いの猪の方が、よっぽど身のこなしが鋭かったわ」
「なめるなァッ!」
ゴドフロワが反射的に鉄槌の柄を手繰り寄せ、丸太のような左腕で私の首をへし折ろうと薙ぎ払ってくる。
遠心力と自重が乗った、凶悪極まりない横薙ぎの剛腕。
――そこ。
私は逃げなかった。
むしろ、迫り来る太い腕の内側へ向かって、自ら沈み込むように踏み込んだ。
左手が、相手の胸当ての革ベルトを鷲掴みにする。
右手が、振り抜かれた相手の右脇の下へと、吸い付くように深く差し込まれた。
「な……ッ!?」
「力に頼りすぎよ、大男!」
私は腰を限界まで沈め、相手の巨体を己の背中へと完全に密着させた。
ゴドフロワ自身の突進力。
横薙ぎの腕が描いた遠心力。
そして――私の両足のバネと、鍛え上げられた背筋が一気に連動する。
北方のヴァンベルク家に伝わる、対巨獣用体術。
「――問答無用ッッ!!」
背中を支点に、世界がひっくり返った。
「ぶ、ぎゃああああああああっっ!?」
ゴドフロワの絶叫が木霊する。
二メートル二十センチ、百五十キロを超える鉄の塊のような巨躯が、私の小さな背中を軽々と飛び越え、観客たちの頭上高く、放物線を描いて舞い上がった。
リングサイドのモーリスの口から、ワイングラスがポロリとこぼれ落ちる。
ベリンダが白目を剥きかけて息を呑む。
数千人の観衆全員が、言葉を失って空を見上げた。
そして――。
ドズゥゥゥゥゥッッッッ!!!!
闘技場の外壁――分厚い石造りの防壁に、ゴドフロワの巨体が背中からダイレクトに激突した。
すさまじい激震。
壁一面にバリバリと巨大な亀裂が走り、石粉の煙が濛々と立ち込める。
ゴドフロワは壁にめり込んだまま、痙攣するように手足をビクつかせ、やがて白目を剥いてずるずると地面へ滑り落ちた。
手から零れ落ちた鉄槌が、カラン……と虚しい音を立てて転がる。
完全なる、一撃轟沈。
「…………」
静寂。
針の一本でも落ちれば聞こえそうなほどの完全な沈黙が、大闘技場を支配した。
誰もが自分の目を疑っていた。
純白の闘技服を着た令嬢が、怪物を空中に放り投げ、一撃で石壁に叩き伏せたという現実を、脳が処理しきれずにいたのだ。
私は乱れた息を整え、両手を腰に当てて、ふうっと前髪を吹き上げた。
「……ふう。やっぱり、地面が頑丈だと気兼ねなく投げられて気持ちいいわね」
私がからりと笑った、その瞬間だった。
「う、うおおおおおおおおおおおおっっっ!!」
ドッと、大闘技場が爆発した。
数千人の観客が一斉に総立ちになり、割れんばかりの拍手と歓声をリングへ叩きつけてくる。
「投げた! あいつを投げ飛ばしたぞ!」
「神業だ! なんて見事な一本背負いだ!」
「姐さん! 姐さん最高だァァァッ!!」
観客席の一角で、警備隊の隊員たちが拳を突き上げて狂喜乱舞している。
立会人の法務武官が、震える手で剣を天に掲げ、声を張り上げた。
「しょ、勝者ッ! 神前名誉決闘裁判、勝者はヴァンベルク男爵令嬢ヒルダ殿ッ!!」
大歓声が最高潮に達する中、私はリングサイドへと視線を向けた。
そこには――。
床に落としたグラスの破片を踏みつけ、顔面を土気色に染めてガタガタと震えているモーリスと。
巻いていたはずの包帯がパラリとほどけ落ち、口をあんぐりと開けたまま腰を抜かしているベリンダの姿があった。
「う、嘘だ……」
モーリスの引き攣った唇から、絶望の呟きが漏れ出た。
「嘘だろ……!? 金貨五百枚……俺の金貨五百枚がああああっ……!!」
勝敗は決した。
だが――自らの見栄と嘘で身を滅ぼした者たちへの、本当の地獄の幕開けは、まさにここから始まろうとしていたのだった。




