第10話
割れんばかりの歓声が、大闘技場の石壁を震わせ続けていた。
リングの中央で息を整える私の元へ、黒革の隊服をまとったベルンハルトが迷いのない足取りで駆け上がってきた。
その手には、清潔な白タオルと硝子の水筒が握られている。
「見事だった、ヒルダ」
彫刻のように整った顔立ちをわずかに緩め、彼は私の肩へ優しくタオルをかけてくれた。
紫水晶の瞳に宿る熱い光は、もはや隠しようもないほど爛々と輝いている。
「怪我はないか? どこか痛むところは」
「ええ、かすり傷ひとつありませんわ。相手の自重を利用して投げただけですもの」
私が差し出された水筒を受け取って喉を潤していると、リングサイドの貴賓席から、耳障りな絶叫が響き渡った。
「う、嘘だ……! こんなの無効だァッ!」
モーリスだった。
顔面を蒼白にし、血走った目を剥き出しにした元夫が、柵を乗り越えてリングの縁へと駆け寄ってきた。
足元には、先ほど落として粉々に砕けたワイングラスの破片が散らばっている。
「八百長だ! あんな田舎の筋肉女が、地下闘技場の無敗の怪物を一撃で倒せるわけがないだろう! おい、ゴドフロワ! 起きろ、この役立たずの豚野郎がッ!」
逆上したモーリスは、石壁の瓦礫に埋まって白目を剥いている巨漢闘士の元へ駆け寄り、その無防備な腹部を泥だらけの靴先で蹴り飛ばした。
「起きろと言っているんだ! 金貨五百枚だぞ! 前払いで五百枚も払ったんだぞ! 負けたら俺はどうなると思ってるんだ! 早く立ってあの女を八つ裂きにしろォッ!」
見苦しい怒声を張り上げ、失神している男を何度も踏みつけるモーリス。
そのあまりに浅ましく非道な振る舞いに、歓声を上げていた数千人の観客たちが一斉に水を打ったように静まり返り、軽蔑の眼差しを向け始めた。
「おい、貴族野郎」
ドスの利いた、低い唸り声が響いた。
瓦礫の陰から、ゴドフロワのセコンドを務めていた二人の屈強な用心棒たちが、青筋を立てて歩み出てきたのだ。
そのうちの一人がモーリスの胸ぐらを片手で締め上げ、地面から軽々と吊り上げた。
「ひっ……!? な、何をする、無礼者め!」
「無礼はお前だ、このクソ野郎が! 気絶してる闘士を足蹴にしやがって! ゴドフロワはな、お前の汚ねえ依頼なんざ受けたくなかったんだよ!」
「な、何を言って――」
「審問官様! 貴族院の立会人の方々!」
用心棒はモーリスを地面へ手荒く投げ捨てると、リングの中央に立つ立会人――貴族院の首席法務監察官の前に進み出た。
そして、自らの懐から分厚い油紙に包まれた細長い包みを取り出し、石畳の上へ叩きつけた。
ハラリと油紙がめくれ、中から現れたのは――
刃の表面に、鈍く青黒い光を帯びた粘液が塗りたくられた、禍々しい一本の短剣だった。
「これは……!?」
立会人の監察官が色めき立ち、腰の長剣を半歩抜いた。
「毒が塗布された暗殺短剣か! 神前決闘の場に、なぜこのような凶器がある!」
「このモーリス・フォークナーが仕込んだんだよ!」
用心棒が、地面に這いつくばるモーリスを指差して吠えた。
「契約の夜、こいつが前払いの金貨と一緒にこの短剣を渡してきたんだ!『確実にあの女の息の根を止めるため、試合の混乱に乗じてこの麻痺毒の刃で刺せ』ってな! だがゴドフロワは誇りある地下の闘士だ。そんな卑劣な毒殺なんざ断固拒否して、己の鉄槌一本で正々堂々と戦ったんだよ! 証拠ならその短剣の柄を見ろ!」
監察官が手袋をはめた手で慎重に短剣を取り上げ、柄の銀細工を確かめる。
「……間違いない。フォークナー子爵家の家紋である、交差する鷹の羽根が刻印されている」
「なっ……!?」
モーリスの喉から、ヒッと引き攣った空気が漏れた。
「ち、違う! 俺じゃない! 俺はただ、確実にあの暴力女を黙らせろと……痛い目に遭わせろと言っただけで、毒なんて……そいつらが勝手に用意したんだ!」
墓穴だった。
動揺のあまり、モーリスは自ら「確実に痛い目に遭わせろと指示した」事実を、数千人の観衆の前でペラペラと自白してしまったのだ。
「ほう。貴殿自ら、傷害を教唆したことを認めたな」
ベルンハルトが冷酷な笑みを浮かべ、モーリスを見下ろした。
観客席のあちこちから「うわあ……」「最低だな」「毒殺未遂かよ」と罵声が飛び交い始める。
その時だった。
「きゃああああああああっっ!! 知りません、私、何も知りませんわぁぁぁっ!!」
貴賓席から、ヒステリックな金切り声が響き渡った。
頭と腕に大袈裟に包帯を巻いていたベリンダが、脱兎の勢いでリングへ駆け込んできたのだ。
彼女は監察官の足元に滑り込み、涙と鼻水で化粧をぐちゃぐちゃに崩しながら、モーリスを指差して叫び立てた。
「全部モーリスに脅されてやらされたんですぅ! 私は被害者ですぅ!」
「な、何だとベリンダァッ!?」
モーリスが目を剥いた。
ベリンダは自らの腕の包帯を乱暴に引きちぎり、地面へ投げ捨てながら喚き散らす。
「怪我なんて最初からしてませんわ! モーリスが『全身骨折したと嘘をつけ、診断書を偽造しろ、そうすれば子爵夫人の座をくれてやる』って唆したんですぅ! 私、全部言われた通りにしただけなんですぅ! 虚偽の告訴を計画したのも、高利貸しから金を借りたのも、全部この男の仕業ですわ!!」
「この、売女がああああああっっ!!」
裏切られたモーリスの理性が、完全に粉々に砕け散った。
モーリスは床から飛び起き、鬼の形相でベリンダの豊かな巻き毛を鷲掴みにした。
「誰の金で豪遊していたと思ってんだ! お前が『あの筋肉女を訴えて持参金と利権を奪い返しましょう』と耳元で囁いたんだろうがッ!」
「痛いっ! 放しなさいよ、この甲斐性なしの無能男! あんたが負けたせいで私の人生まで滅茶苦茶じゃないのよ!」
キャアキャア、ギャアギャアと響き渡る罵声。
大闘技場の中央、満天下の観衆が見守るリングの上で、二人は泥まみれになりながら互いの髪を引っ張り合い、顔を爪で引っ掻き、服を引き裂く醜悪な掴み合いを始めた。
「見ろよ、あいつら……」
「ひでえな、お似合いのクズ同士だ」
「あんな恥知らずな男に半年も耐えてたヒルダ様が不憫すぎるぜ」
観客席から嘲笑と野次が雨のように降り注ぐ。
かつて「守ってやりたい可憐な女」と「頼れる裕福な子爵様」気取りだった二人の化けの皮が、公衆の面前で無残に剥ぎ取られていく光景は、もはや喜劇を通り越して哀れですらあった。
「警備隊、双方を引き離せ」
ベルンハルトの冷徹な号令が下り、待機していた屈強な隊員たちが踏み込んだ。
モーリスとベリンダはあっさりと引き剥がされ、それぞれ後ろ手に拘束される。
そして――貴族院の首席監察官が、厳粛な面持ちで壇上に歩み出た。
「静粛にッ!」
監察官の鋭い一喝に、闘技場が静まり返る。
「神前名誉決闘裁判の勝敗、ならびに現場で提出された証拠物、関係者の証言、当事者双方の自白に基づき、貴族院法廷の正式な決定を言い渡す!」
羊皮紙の巻物が広げられた。
「第一に、名誉決闘の勝者たるヴァンベルク男爵令嬢ヒルダ殿の完全なる名誉回復を宣言する! 被告ヒルダ、ならびにアイゼンハルト総隊長に対する一切の告訴は、明白な虚偽と断定し全面棄却!」
ワッと歓声が沸き起こる。
「第二に、原告モーリス・フォークナーに対し、虚偽告訴罪、司法妨害罪、ならびに神前決闘における毒物使用教唆の重罪を認定! 直ちに身柄を拘束し、貴族院特別刑事法廷へ送致とする!」
「第三に、共謀者ベリンダ・トレンスに対し、偽証罪、ならびに虚偽診断書行使の罪を認定! 同様に身柄を拘束する!」
「う、嘘だ……嘘だああああああっっ!!」
モーリスの絶叫が木霊した。
だが、その声に耳を貸す者は誰もいない。
憲兵たちによって縄を打たれ、泥まみれのまま引きずられていくモーリスとベリンダ。
自らの見栄と嘘で塗り固めた砦が、自らの浅ましい裏切り合いによって、完膚なきまでに崩壊した瞬間だった。
「……本当に、勝手に自爆していきましたわね」
連行されていく二人の無様な背中を見送りながら、私が思わず呟くと、隣に立つベルンハルトが紫水晶の瞳を細め、静かに言った。
「ああ。だが、あいつらの受けるべき報いは、ここからが本番だ」
ベルンハルトの言葉通り、すべてを失った男と女を待っていたのは、自業自得という名の、逃げ場のない破滅の坂道だった。




