第8話
王都の中央通りでの一悶着から三日後。
警備隊本部の総隊長執務室に、王室司法局と貴族院の二重の封蝋が施された、大仰な羊皮紙の巻物が届いた。
「……随分と、派手に事実を歪曲してくれたものだな」
執務机の向こうで、ベルンハルトが冷え切った紫水晶の瞳を細め、届いたばかりの訴状を指先で弾いた。
私はその向かいの椅子に腰掛け、差し出された訴状の写しに目を通す。
原告:フォークナー子爵嫡男 モーリス・フォークナー。
被告:ヴァンベルク男爵令嬢 ヒルダ。ならびに、王都警備隊総隊長 ベルンハルト・フォン・アイゼンハルト。
そこに書き連ねられていた告訴内容は、呆れ果てて言葉を失うほど荒唐無稽なものだった。
『被告ヒルダは、婚姻期間中より凶暴な本性を隠し、無辜の夫モーリスに対して日常的な暴言および家庭内暴力を繰り返していた』
『先般の別邸における事件も、愛妾たるベリンダ・トレンス嬢への逆恨みによる一方的な殺人未遂であり、夫モーリスに対しても重傷を負わせた』
『さらに、警備隊総隊長ベルンハルトは職権を濫用し、公権力を笠に着て正当な配偶者から妻を強奪。不当な圧力をかけて不法に離縁を強要した』
『よって、先の離縁処分の無効と、慰謝料として金貨千枚、ならびにヴァンベルク男爵領の特産物独占取引権の即時復旧を要求する』
「まあ……よくもここまで、一文字も真実のない絵空事を並べ立てられたものですわね」
私が思わず失笑を漏らすと、訴状の束に添えられていたベリンダの陳述書からも、香水の匂いがぷんぷんと漂ってきた。
そこには『全身の筋を痛め、歩行も困難な重傷を負わされた』とする、怪しげな町医者の診断書が貼り付けられている。
「あんな厚手の羊毛絨毯の上に着地させて、骨一つ折れていなかった娘が、歩行困難ですって? 笑わせないでほしいわ」
「当然、通常の裁判審理であれば、警備隊の公式調書と現場検証の記録を提出するだけで一秒で棄却される案件だ。だが――」
ベルンハルトは厳格な顔つきのまま、訴状の末尾に記された一文を指差した。
「奴は、通常の法廷審理を拒否している。王国の古法に則り、貴族院に対して『神前名誉決闘裁判』の開催を申請し、すでに受理された」
神前名誉決闘裁判。
貴族同士の重大な名誉の毀損や、双方の言い分が真っ向から対立した際、古来の騎士法に基づき、神の御前で互いの名誉をかけて戦う公開の儀礼試合だ。
勝敗そのものが直ちに刑事判決を確定させるわけではないが、勝利した側は「神の加護のもとで名誉ある抗弁権」を認められ、大観衆の前で相手の面子を完全に叩き潰すことができる。
「文官であるモーリス自身が戦うはずもない。王国の古法規では、自らが非戦闘員であることを理由に、代理闘士を立てることが認められているからな」
「代理闘士……。あの方、手持ちの金などほとんどなかったはずですけれど」
「その点についても、裏付けが取れた」
ベルンハルトは手元の別の報告書をめくった。
「奴はフォークナー子爵家の本邸から勘当を突きつけられ、ヴァンベルク家からの利権も凍結されて金に困り果てた結果、王都の闇金融――悪名高い高利貸し『銀獅子商会』へ駆け込んだらしい」
「高利貸しに?」
「ああ。『裁判に勝てば莫大な慰謝料と北方の鉱石利権が手に入る、子爵家の名において必ず数倍にして返済する』と大口を叩き、法外な利息で金貨五百枚を借入したそうだ。そしてその金を前払いし、王都の地下闘技場で無敗を誇る凶悪な傭兵を代理人として雇い入れた」
金貨五百枚。
子爵家の名を無断で担保にし、勝訴の皮算用で闇金から借金を重ねてまで、私を貶めようというのか。
「身の程知らずにも程がありますわね。負けたらどうやって返すつもりかしら」
「奴の頭には『負ける』という選択肢がないのだろう。……だが、心配はいらん」
ベルンハルトは静かに立ち上がると、腰の佩剣の柄に手を当て、紫水晶の瞳に冷徹な光を宿した。
「私が、アイゼンハルト侯爵家の名において君の代理人としてリングに立つ。あのような愚劣な傭兵、一撃で切り捨てて終わらせてやる」
王国最強の騎士の、あまりにも頼もしい申し出。
普通の令嬢なら、感激してその胸に飛び込んでいたかもしれない。
けれど――私は首を横に振った。
「いいえ、ベルンハルト様。お断りいたしますわ」
「……何?」
ベルンハルトが珍しく目を見張り、眉をひそめた。
「なぜだ、ヒルダ。奴が雇ったのは、地下闘技場で何十人もの骨を砕いてきた筋金入りの人斬りだ。いくら君が常人離れした怪力を持っていようと、命のやり取りをする必要はない」
「命のやり取りなんて、北方の冬山で熊や魔獣を相手に散々やってきましたわ」
私は立ち上がり、ふふんと胸を張った。
「第一、これは私が夫の浮気相手をシバき倒したことから始まった、私の喧嘩です。私の名誉をかけた戦いに、大好きな殿方の背中に隠れて代理人を頼むなんて、北方の武門ヴァンベルクの女がやることじゃありません!」
「だ、大好きな……!?」
ベルンハルトの顔が、一瞬で耳の先まで真っ赤に染まった。
彫刻のような鉄面皮がガラガラと音を立てて崩れ、大きな掌で口元を覆いながら激しく動揺している。
「き、君は……不意打ちで何を口走っているんだ……」
「あら、事実ですもの。私、強い殿方は大好きですわよ」
私は悪戯っぽく笑い、それから拳をぎゅっと握りしめて見せた。
「それにね、ベルンハルト様。あの男は私を『野蛮な筋肉女』と蔑み、女としての尊厳を踏みにじりました。なら――その野蛮だと見下した筋肉で、奴が全財産を賭けて雇った最強の闘士を完膚なきまでにブチのめしてやるのが、一番の薬だと思いませんこと?」
私の瞳に宿る、好戦的で迷いのない光。
それを見つめていたベルンハルトは、呆気にとられたように瞬きをし、それから――耐えきれないといったように、深く喉を鳴らして笑い出した。
「……くっ、ははは! 全くだ。君の言う通りだ」
ベルンハルトは私の前まで歩み寄ると、私の握りしめた拳を、自らの大きな手で優しく包み込んだ。
その瞳には、熱烈な敬愛と情熱が溢れていた。
「やはり君は最高だ。惚れ直したよ、ヒルダ」
「もう、すぐそうやって真顔で口説くんですから」
二人の間に流れる、心地よい空気。
売られた喧嘩を正面から叩き潰す準備は、完全に整った。
* * *
決闘裁判の当日。
会場となった王都大闘技場は、異様な熱気と歓声に包まれていた。
すり鉢状の観客席を埋め尽くすのは、貴族院の重鎮たち、着飾った高位貴族、そして物珍しい「元子爵夫人vs地下闘技場の怪物」の決闘を一目見ようと押し寄せた数千人の王都市民たちだ。
石造りの円形リングの向こう側。
リングサイドの貴賓席には、高利貸しから借りた金で新調したらしい派手な上着を着たモーリスが、ふんぞり返って座っていた。
その隣には、大袈裟に頭や腕に包帯を巻き、悲劇のヒロイン気取りでハンカチを目元に当てているベリンダの姿もある。
「ふはは! 見ろよベリンダ、あの筋肉女、本当に逃げずにリングに上がりやがったぞ!」
「まあ、本当に身の程知らずですわねぇ。ゴドフロワ様にミンチにされてしまえばいいんですわ!」
二人が下品な笑い声を響かせる中、リングの鉄扉が重々しい音を立てて開いた。
砂を踏みしめ、姿を現したのは――。
純白の闘技服に身を包み、長い髪をポニーテールに束ねた、私。
大観衆のどよめきの中、私は首を左右にコキリと鳴らし、不敵な笑みを浮かべてリングの中央へと歩み出たのだった。




