第7話
茜色に染まる王都の中央通りに、冷たい夕風が吹き抜けていた。
仕立屋の豪奢な扉の前で立ち塞がる男――モーリス・フォークナーの姿は、わずか一週間前まで王宮文官として鼻を高くしていた面影など、どこにも残っていなかった。
仕立ての良いはずの上着はあちこちに泥と染みがこびりつき、襟元はよれ、胸元のボタンは掛け違えている。無精髭の生えた頬は不健康にこけ、充血した瞳にはドス黒い執念と焦燥が渦巻いていた。
別邸のリビングでふんぞり返っていたあの男が、今や路上をうろつく落ちぶれ貴族そのものだ。
「……何の用かしら、フォークナー卿」
私はベルンハルトに選んでもらった深紅のドレスの上に、薄手の上着を羽織ったまま、冷ややかな視線を向けた。
モーリスは私の姿を頭からつま先まで舐めるように見回し、その顔を激しい嫉妬と侮蔑で歪ませた。
「おいおい、随分と着飾っていい気なものだな、ヒルダ! 俺の家をあんなゴミ溜めにして放り出しておいて、男に高級な服を買い与えられて尻尾を振っているのか!? このふしだらな筋肉女が!」
「言葉を慎みなさいな。公衆の面前で見苦しいわよ」
私が眉をひそめて窘めると、モーリスは鼻から荒い息を吐き散らし、ずいっと一歩間合いを詰めてきた。
「見苦しいのはお前だ! よくも親父を丸め込んで、勝手に離縁の手続きなんか進めてくれたな! だがな、俺はまだ納得していないぞ! お前のような野蛮な女、俺以外の誰が妻にしてやるっていうんだ!」
何を言っているのか、本気で理解が追いつかなかった。
呆気にとられる私に、モーリスはさも自分が度量の広い聖人君子であるかのように、胸を張って傲慢に言い放った。
「いいか、ヒルダ。俺の寛大な心で、お前があの別邸で暴れてテーブルを壊した罪も、ベリンダを投げ飛ばした罪も、すべて不問にしてやる」
「……はい?」
「今すぐ俺のアパートへ戻り、身の回りの世話をしろ。そしてヴァンベルク男爵に手紙を書いて、『不貞の誤解は解けたから、北方の魔獣革と防寒鉱石の取引を即座に再開しろ』と命令するんだ。そうすれば、お前を正妻の座に戻してやる。ベリンダはお前の下に置いて、側室として住まわせてやるから感謝しろ!」
開いた口が塞がらないとは、まさにこのことだった。
自分の不貞が原因で家を荒廃させ、実家の利権まで失いかけた男が、反省するどころか「戻ってきて実家の利権を差し出せば許してやる」と上から目線で宣ったのだ。
哀れみを通り越して、寒気すら覚えるほどの愚かさだった。
「あのね、モーリス卿」
私はため息をつき、首を左右に振った。
「何を激しく勘違いなさっているのか知りませんけれど、私たち二人の婚姻関係は、先週のうちに王室教会と司法局の正式な令達によって完全に解消されましたの。私はもう、貴方の妻でもなければ、フォークナー家の人間でもありません」
「なっ……!?」
「それに、私が壊したテーブルの弁償金五十万セルと、行政過料の二十万セルについては、警備隊での私の労働対価をもって納付する計画が、司法局に正式受理されております。貴方に許してもらう筋合いなど、爪の先ほどもございませんわ」
「ふざけるなッ!」
正論で叩きのめされたモーリスは、顔を真っ赤にして逆上した。
「誰の金で今まで王都で暮らせていたと思っているんだ! 田舎の木こり女が、俺の情けを袖にする気か! 力尽くでも連れ戻して――」
モーリスが激昂し、私の手首を乱暴に掴もうと手を伸ばしてきた。
――あ、また手加減なしで顎を砕いてしまいそう。
私が反射的に右拳を握り込み、腰を落としかけた、その刹那だった。
ザッ、と鋭い軍靴の音が石畳を叩いた。
「――そこまでだ」
氷山を叩き割るような、低く重い声が頭上から降ってきた。
私の前に、壁のように巨大な影が割り込む。
ベルンハルトだった。
彼は伸ばされたモーリスの右腕の前に、自らの左手を無造作に差し入れた。
パシィン、と乾いた音が響き、モーリスの腕が空中で完全に制止される。
「ひっ……!?」
モーリスの喉から、蛙の潰れたような悲鳴が漏れた。
ベルンハルトはモーリスの手首を掴んですらいない。ただ、己の掌を盾のように置いただけだ。
それなのに、モーリスの腕はまるで鉄の巨岩にぶつかったかのように弾かれ、痺れを切らして宙を彷徨っていた。
「き、貴様……! 警備隊の分際で、子爵家の俺に手を出す気か!?」
「退け」
ベルンハルトの紫水晶の瞳から、冷酷無比な殺気が放たれた。
王都の治安を最前線で守り、幾多の凶悪犯や魔獣を切り伏せてきた王国最強の武人の気迫。
その圧倒的な圧力の前に、文官のモーリスは膝の震えを止められず、ガタガタと歯の根を鳴らして二歩、三歩と後ずさった。
「貴殿に、彼女の身体に指一本触れる権利はない」
ベルンハルトは一歩踏み出し、見下ろすように冷ややかに告げた。
「ヒルダ・ヴァンベルク嬢は、自らの過失を自らの力で償うべく、我が隊において正規の責務を果たしている誇り高き特別指導員だ。貴殿のような、己の非を他人に擦り付けることしかできぬ寄生虫の私物ではない」
「き、寄生虫だと……!?」
「そうだ。そして――」
ベルンハルトはそこで言葉を区切ると、夕暮れの街路角で、通りがかる市民たちにもはっきりと聞こえる威厳ある大声で、堂々と宣言した。
「彼女は、いずれ我がアイゼンハルト侯爵家に妻として迎えたいと、私自身が心から切望している女性だ。二度とその無礼な口で彼女を侮辱するな」
しん、と通りが静まり返った。
店先にいたマダム・クローデットも、行き交う市民たちも、目を見張って立ち尽くしている。
あの、女性を寄せ付けないことで有名な王国武門の筆頭、アイゼンハルト侯爵家の次男が。
公衆の面前で、堂々と特定の女性への求愛を口にしたのだ。
「…………っっ!?」
一番驚いたのは、他ならぬ私だった。
耳の奥がカッと熱くなり、心臓が早鐘のように跳ね上がる。
私は思わずベルンハルトの背中に回り込み、彼の鍛え上げられた脇腹を、人差し指でツンツンと強く小突いた。
「ちょ、ちょっとベルンハルト様ッ!? 人前で何を堂々と仰っているのですか! わ、私、まだ貴方の求婚にお返事しておりませんわよ!?」
「む」
ベルンハルトは振り返り、至極真面目な顔で私の目を覗き込んできた。
「知っている。君の承諾を得る前に外堀を埋めるような真似は本意ではない。だが、あの男に『君には守るべき者がいる』と知らしめるには、事実を述べるのが最も手早い」
「事実って……! だから、まだ返事してないって言ってるじゃないですか!」
「承知している。君が首を縦に振ってくれるまで、私は何度でも口説くと言ったはずだ」
涼しい顔でとんでもない熱情を口にするベルンハルト。
夕焼けの赤さのせいだけではない。私の顔は完全に沸騰していた。
通りで見物していた若い娘たちが「きゃあ!」と黄色い悲鳴を上げ、マダムが楽しそうに拍手をしている。
その光景を前に、完全に道化となったモーリスの顔は、屈辱と怒りで土気色を通り越し、紫に変色していた。
「お、お前たち……! グルだったのか! 不貞を働いていたのはお前たちの方じゃないか!」
泡を吹きながら、モーリスは後ずさり、震える指を私たちに突きつけた。
「許さん……絶対に許さんぞ! 訴えてやる! 貴族院へ正式に提訴してやる! 不法な暴力を振るった筋肉女と、職権を乱用して人妻を強奪した警備隊長を、満天下の法廷で引きずり落として破滅させてやるからな!!」
金切り声を張り上げ、モーリスは躓きそうになりながら、夕闇の路地へと逃げ去っていった。
その背中には、かつて貴族文官として誇っていたはずの気品など、欠片も残っていなかった。
「……見苦しい男だな」
ベルンハルトは冷淡に呟き、私の元へと向き直った。
その瞳には、先ほどの冷酷な殺気は消え失せ、私を気遣うあたたかな色が戻っていた。
「すまない、ヒルダ。勝手な宣言をして君を巻き込んだ」
「……いいえ。胸がすく思いでしたわ」
私はまだ少し火照る頬を押さえながら、ふっと不敵な笑みを浮かべてみせた。
「それにしても、貴族院へ提訴だなんて……あの方、本当に懲りないことですわね」
「貴族院か。……奴がどう喚こうと、法と証拠はお前を護る。私がすべて対処しよう」
「あら、ベルンハルト様」
私は腰に手を当て、力強く胸を張った。
「守られるだけなんて、私の性に合いませんわ。売られた喧嘩なら、私が直接買い取って、徹底的に叩き潰してあげます!」
頼もしすぎる私の啖呵に、ベルンハルトは一瞬呆気にとられ、それから――この日一番の、低く温かい笑い声を漏らしたのだった。




