第6話
警備隊の特別指導員としての生活は、驚くほど私の性に合っていた。
朝六時に起きて隊員たちと走り込み、午前中は基礎体幹の鍛錬。昼には食堂で山盛りの干し肉と黒パンを平らげ、午後は対人制圧の組み手。
フォークナー別邸で息を潜めていた半年間が嘘のように、全身の筋肉が心地よい疲労と喜びに満たされていた。隊員たちも今や私を「姐さん」と呼び、街の治安を守るための投げ技を熱心に学んでいる。
そんなある日の午後、日課の稽古を終えて汗を拭っていた私に、ベルンハルトが声をかけてきた。
「ヴァンベルク嬢。本日の午後は非番だな」
「ええ、そうですけれど。何か緊急の警邏でもありますの?」
「いや。私服に着替えて表の馬車へ乗れ。街へ出る」
用件を尋ねても、彼は「行けば分かる」としか答えない。
私は首を傾げつつ、手持ちの中で一番まともな灰色の地味なワンピースに着替え、指定された馬車へと乗り込んだ。
馬車が停まったのは、王都の中央広場に面した一等地だった。
豪奢なガラス張りのショーウィンドウに、ため息が出るほど豪奢なドレスが並んでいる。王都随一の高級仕立屋『メゾン・クローデット』の看板を見上げ、私は慌てて足を止めた。
「ちょ、ちょっと待ってください、総隊長殿。なぜこのような場所へ?」
「君の私服を新調しに来た。隊の制服か、その地味な古着しか持っていないだろう」
「困っていませんわ。それに……私には、こんな華やかな店は不相応です」
私は思わず自分の肩を抱いた。
北方の寒村で鍛え上げられた私の体は、王都の淑女のように華奢でもなければ、頼りなげでもない。
『肩幅が広くて可愛げがない』
『ドレスを着ても武骨な兵卒が着飾っているようにしか見えん』
かつてモーリスから浴びせられた言葉が、苦い棘のように記憶の底を突く。離縁して吹っ切れたつもりでも、長年植え付けられた居心地の悪さは、そう簡単には消えてくれなかった。
「私は背も高いですし、レースやリボンで飾られたドレスなんて似合いません。場違いですわ」
「誰がフリルを着ろと言った」
ベルンハルトは平然とした声で遮ると、私の手首をそっと、だが力強く引き寄せた。
「貴族社会を抜けたとはいえ、君はれっきとした男爵令嬢であり、我が隊の筆頭指導員だ。格式ある場に同行してもらう機会も増える。……それに、君の真の美しさを覆い隠すような灰色の布地など、私が我慢ならん」
「へ……?」
呆気にとられる私をよそに、ベルンハルトは迷いのない足取りで店の重厚な扉を開け放った。
店内に足を踏み入れると、優雅な香水の匂いとともに、恰幅のいい女性店主が足早に出迎えてきた。厳しい審美眼で社交界の流行を牽引する、マダム・クローデットその人だ。
「まあ、アイゼンハルト総隊長! 武骨な貴方が女性を同伴されるなんて、天変地異の前触れかしら。……そちらのお嬢さんは?」
「我が隊の特別指導員、ヒルダ・ヴァンベルク嬢だ。彼女に最も相応しい一着を仕立ててほしい」
「ふうん……?」
マダムの鋭い視線が、私の頭の先からつま先までを射抜くように走った。
委縮しそうになる私を、ベルンハルトの低い声が支える。
「注文は一つだけだ。余計な飾りで身体の線を隠すな。無駄のない体幹、引き締まった美しい広背筋、そして凛とした立ち姿を最も際立たせる、深紅の最高級シルクを使え」
「ちょ、総隊長殿!? 背筋を際立たせるって何ですの!?」
「静かに。専門家の意見を聞く」
抗議する私を無視し、ベルンハルトは大真面目な顔で腕を組んだ。
すると、私の体をぐるりと一周観察していたマダム・クローデットの目が、カッと見開かれた。
「……素晴らしいわ」
「はい?」
「素晴らしい骨格よ! 無駄な脂肪が一切なく、鍛え上げられた背筋から腰へと至るこの完璧な曲線! 昨今の令嬢たちはコルセットで内臓を締め上げて青白い顔をしているけれど、彼女は内側から生命の輝きが満ち溢れているわ! これこそ本物のプロポーションよ!」
マダムは熱狂したように両手を打ち鳴らし、針子たちへ矢継ぎ早に指示を飛ばした。
あれよあれよという間に試着室へ押し込まれ、脱がされ、仕立て上がっていたばかりの深紅のドレスを身に纏わされる。
――こんなに身体の線が出るドレス、着たことがない……。
胸元は詰まっているものの、背中が肩甲骨の下あたりまで大胆に開いている。
だが不思議と、下品な露出には見えなかった。深紅の滑らかな絹が私の肌に吸い付くようにフィットし、動くたびにしなやかな筋肉の陰影を、この上なく気品ある美しさへと昇華させていた。
「さあ、総隊長にお見せなさいな!」
マダムにカーテンを開け放たれ、私は落ち着かない気持ちのまま、居間に立つベルンハルトの前へと歩み出た。
「あの……総隊長殿。やはり、少し奇抜すぎやしませんでしょうか。背中が丸見えですし、筋肉が目立って……」
私が恐る恐る視線を上げると。
ベルンハルトは、呼吸を忘れたように立ち尽くしていた。
紫水晶の瞳が、釘付けになったように私から離れない。
彫刻のように整った顔立ちが、見る見るうちに耳の先、首筋に至るまで真っ赤に染まっていく。
「総、隊長殿……?」
「…………息が、止まるかと思った」
掠れた、熱を帯びた声だった。
ベルンハルトは一歩、二歩と間合いを詰め、私の目の前で立ち止まった。
大きな手が伸びてきて、私の肩――ドレスの開いた背際へと、躊躇いがちに添えられる。
革手袋越しではない、あたたかい素肌の温度が直接伝わってきて、私の心臓がドクンと激しく跳ねた。
「世界一美しい」
迷いのない、絶対的な声音だった。
「君を野蛮だと嘲笑い、その輝きを否定した奴らの目は、ただの節穴だ。自らの鍛錬によって勝ち取ったその強さも、凛とした立ち姿も……君のすべてが、息を呑むほどに誇らしく、美しい」
「ベルンハルト、様……」
「私の目は誤魔化せん。君こそが、この王都のどの花よりも気高い」
大人の男の、甘く深い賛辞。
お世辞でも気休めでもない。私の歩んできた二十年間のすべてを丸ごと肯定し、愛でてくれる熱い眼差し。
胸の奥底にこびりついていた冷たい澱が、音を立てて溶け去っていくのが分かった。
視界がじんわりと熱くなるのを誤魔化すように、私はわざと咳払いをしてみせた。
「……もう。総隊長殿は、本当に筋肉を褒めるのがお上手ですこと」
「筋肉だけを褒めているのではない。君という人間そのものに見惚れているのだ」
平然とそんな台詞を返すベルンハルトに、今度は私の顔が爆発しそうに熱くなった。
背後でマダムが「ごちそうさまですわねぇ」と楽しそうに扇を揺らしている。
「マダム、このドレスをはじめ、彼女に似合う日常着を五着仕立ててくれ。代金はすべて私の私費から一括で支払う」
「えっ、待ってください! 私の服ですもの、日当から自分で払います!」
「ならん。これは私の我儘で着せているのだ。……君を美しく飾る権利くらい、私に譲ってくれ」
有無を言わさぬ口調で金貨を積み上げるベルンハルト。
強引なのに、どこまでも私を尊重してくれるその気遣いに、私は胸を締め付けられるような甘い敗北感を覚えていた。
仕立ての手続きを終え、包みを馬車へ積み込んで店を出た時、王都の空は茜色に染まり始めていた。
「楽しかったわ、ベルンハルト様。生まれて初めて、ドレスを着て誇らしいと思えました」
「そうか。ならば連れてきた甲斐があったというものだ」
二人で並んで歩き出した、その時だった。
「――おい、ヒルダッ!」
石畳の向こうから、荒々しい怒声が響いた。
足を止めると、通りの陰から一人の男が飛び出してきた。
皺だらけの薄汚れた上着に、無精髭の生えた青白い顔。かつての小奇麗な身なりは見る影もなく、血走った目で私を睨みつけている。
――モーリス。
正式に離縁状が下り、赤の他人となったはずの元夫が、執念深い怨嗟の表情を浮かべて、私たちの行く手を塞ぐように立ちはだかっていた。




