第5話
ヒルダが鞄二つを手に別邸を出て行ってから、わずか五日後のことである。
「……うぐっ、なんだこの臭いは……」
別邸の二階寝室で目を覚ましたモーリス・フォークナーは、鼻をつく生ゴミと埃の悪臭に顔をしかめ、重い頭を抱えて身を起こした。
二日酔いの頭痛に加え、ヒルダにねじり上げられた右腕の筋が今もズキズキと疼いている。
いつもなら、この時間にはカーテンが開け放たれ、朝の爽やかな光とともに淹れたての香ばしい珈琲の香りが漂っていたはずだった。
枕元には糊のきいた清潔なシャツが用意され、一階からは朝食を調理する心地よい銀器の音が響いていた。
だが今、モーリスの視界に広がるのは、脱ぎ散らかされて床に丸まったシワだらけの衣服の山と、数日前に食べた菓子の包み紙、そして飲み残して濁ったワインのグラスだけだった。
「おい、執事! 誰か珈琲を持ってこい! 喉が渇いてたまらん!」
苛立ちまぎれに寝室のベルを激しく鳴らす。
チリンチリンと虚しい金属音が廊下に響き渡るが、足音ひとつ返ってこない。
「……ちっ、そうだ。あの恩知らずどもめ……!」
モーリスは毒づきながら、冷え切った床に足を下ろした。
ヒルダが出て行った翌朝の出来事は、モーリスにとって予想だにしない屈辱だった。
別邸に仕えていた執事、料理長、家政婦頭をはじめとする使用人六名が、全員揃ってトランクを携え、玄関ホールに整列していたのだ。
『旦那様。私たちはヴァンベルク男爵閣下より給与を賜り、ヒルダお嬢様の生活をお支えするために北方から派遣された従者でございます』
執事は慇懃無礼な一礼とともに、辞表の束を差し出してきた。
『お嬢様がこの屋敷を去られ、あのような破廉恥な娘を正妻気取りで引き入れた屋敷に、私たちが一秒たりとも留まる理由はございません。本日をもって全員辞職し、北方の男爵領へ引き揚げさせていただきます』
『な、なんだと!? お前たち、雇い主の俺を置いていく気か! 契約違反だぞ!』
『契約金はすべてヴァンベルク男爵家より支払われております。旦那様から頂戴している金など一銅貨もございません』
そう言い残し、使用人たちは誰一人振り返ることなく屋敷を去っていった。
慌てて王都の職業紹介所へ駆け込んだものの、一流の執事や料理人を雇うには莫大な費用がかかる。ヒルダの持参金頼みで身の丈に合わない豪邸を構えていたモーリスの懐事情では、代わりの人員など雇えるはずもなかったのだ。
「くそっ、腹が減って死にそうだ……。おい、ベリンダ! 朝飯はどうした!」
モーリスは部屋着を羽織り、足の踏み場もない階段を下りて一階のリビングへ向かった。
リビングの扉を開けた瞬間、モーリスの眉間が引き攣った。
数日前にヒルダが叩き折った特注オーク材のテーブルは、真っ二つに割れた無残な姿のまま部屋の隅に積み上げられ、散乱した木片すら片付けられていない。
その荒れ果てた部屋のソファーで、愛人のベリンダが派手なネグリジェ姿のまま横たわり、昼前だというのに優雅に爪のやすり掛けをしていた。
テーブル代わりの木箱の上には、食べ散らかした高級果物の皮と、乾いたパンの残骸が転がっている。
「ベリンダ! お前、掃除も洗濯もまだやっていないのか!? 朝飯はどうしたんだ!」
「はぁ?」
ベリンダはやすりの手を止め、露骨に嫌そうな顔をしてモーリスを睨みつけた。
数日前まで見せていた『か弱い小鹿のような可憐さ』など、そこには微塵も存在しなかった。
「なによ朝から大声出して。朝飯なんてそこらにあるパンでもかじればいいじゃない。私、昨夜の舞踏会の疲れが取れてないんですから、大きな声出さないでくださる?」
「な、何だと……!? 俺は王宮に登城するんだぞ! 朝の支度をするのは妻の役目だろうが!」
「妻? 誰が妻よ。私、まだ正式に結婚なんてしてませんけど?」
ベリンダは鼻で嗤い、ソファーに足を投げ出した。
「だいたい、話が違いすぎますわ! モーリス様は『俺は裕福な子爵嫡男だから、お前は指一本動かさずに贅沢させてやる』って仰いましたよね!? それなのに召使いは一人もいないし、屋敷はゴミだらけだし、食事の用意まで私にやれですって!? 私、準男爵令嬢ですよ!? 下女みたいな雑用なんてするわけないでしょう!」
「お前……! 家事くらいできると言っていたではないか! 料理が得意で、俺のために甲斐甲斐しく尽くしたいと……!」
「そんなの、殿方を釣るための冗談に決まってるじゃないの! 馬鹿じゃないの!?」
キンキンと響く金切り声。
かつて「可愛い」「守ってやりたい」と鼻の下を伸ばしていた女の正体は、掃除機一つ動かせず、ただ贅沢な蜜を吸うことしか頭にない、怠惰で図々しい寄生虫そのものだった。
「だいたい、昨日のドレスの代金はどうなったんですの!? ツケ払いにしたのに、店から『支払いが滞っている』って手紙が届いたわよ! 早く払ってちょうだい!」
「金、金と喚くな! 俺の給料だけであんな高級店をポンポン買えるわけがないだろう!」
「甲斐性なし! あんな筋肉女を追い出せば大金持ちになれるって言ったのはあんたじゃないのよ!」
狭いリビングに、互いを罵り合う醜悪な怒声が木霊する。
かつての甘い密月など跡形もなく、残ったのは底意地の悪さと金銭への執着だけだった。
その時だった。
ドンドンッ! ドンドンッ!!
荒々しいノックの音が玄関扉を叩き割らんばかりに響き渡った。
モーリスが舌打ちしながら扉を開けると、そこにはフォークナー子爵家本邸の家令が、真っ青な顔で仁王立ちしていた。
「若旦那様! 直ちに本邸へお越しください! 子爵閣下が激怒しておられます!」
「ち、父上が……? いったい何事だ」
「何事か、ではございません! 今すぐです!」
家令に引きずられるようにして本邸へと連行されたモーリスを待っていたのは、執務室で怒髪天を衝くフォークナー子爵の姿だった。
「父上、一体なんの――」
「黙れッ、この大馬鹿者がァッッ!!」
バシィィィッ!!
子爵が手にした樫の木のステッキが、モーリスの頬を容赦なく打ち据えた。
鈍い音とともにモーリスの体が絨毯に吹き飛ぶ。
「ぐわっ……!? な、何をなさるのです父上!」
「何をするか、だと!? これを見ろ!」
机の上から叩きつけられたのは、北方ヴァンベルク男爵家からの公式通達書だった。
そこには、王宮司法局および軍需統括部へも同時送達された、恐るべき宣告が記されていた。
『フォークナー子爵嫡男モーリスによる著しい不貞行為、ならびに正妻への権利侵害を確認。本日をもって、ヴァンベルク男爵領よりフォークナー家へ独占供給していた特級防寒鉱石、ならびに軍用魔獣革の一切の取引契約を即日破棄する』
「な……っ!?」
「読んだか!? 貴様が別邸からヒルダ殿を追い出し、あのような下賤な小娘を引き入れたせいで、我が家の生命線である北方の利権が灰燼に帰したのだぞ!」
子爵はワナワナと肩を震わせ、唾を飛ばして怒鳴りつけた。
「我が家が王宮の文官貴族として発言力を保てていたのは、北方の強大な武門であるヴァンベルク家と縁を結んでいたからだ! 軍需物資の卸を打ち切られた我が家は、今期だけで数千枚の違約金を背負うことになる! お前はいったい、何という大損害を我が家に運んできたのだ!!」
「そ、そんな……! あいつは、あんな筋肉女、俺の顔色を窺うだけの大人しい女だったはずです! なぜそこまでの事態に……!」
「大人しい女だと!? 向こうは北方の砦を守る歴戦の武門だぞ! 舐めた真似をされた娘のために、一族を挙げて報復に出てくるに決まっているだろうが!」
モーリスの視界が真っ暗になった。
自分が「可愛げがない」「野蛮だ」と小馬鹿にしていた妻の背後に、どれほど強大な軍事的・経済的後ろ盾が存在していたのか。
失って初めて、その冷酷な現実が骨身に染み渡っていく。
そして――追い打ちをかけるように、執務室の扉が開いた。
王室教会の純白の法衣をまとった特使と、司法局の監察官が厳粛な足取りで入室してきたのだ。
「フォークナー子爵、ならびにモーリス卿」
特使は羊皮紙の巻物を広げ、重々しい声で宣告した。
「双方の当主による調停合意書、ならびに警備隊の公式調書に基づく不貞の有責性が確認されました。国王陛下の御名において、王室教会は本日付をもって、モーリス・フォークナーとヒルダ・ヴァンベルクの婚姻関係の完全なる解消――すなわち、正式な離縁の成立を令達いたします」
――正式な離縁の成立。
その言葉が下された瞬間、法的な鎖が完全に断ち切られた。
「なお、ヴァンベルク男爵家より預託されていた持参金の全額返還が決定し、共同管理口座は本日をもって凍結。さらに、ヒルダ殿より申し立てのあった私邸の器物損壊賠償金ならびに行政過料については、本人の自立就労による納付計画が受理されました。貴殿らフォークナー家が彼女に請求できる権利は、一銅貨たりとも存在しません」
特使の無慈悲な宣告。
モーリスは床に手をついたまま、魂を抜かれたように固まった。
正式に離縁。
もう、ヒルダは自分の妻ではない。
彼女の持参金も、実家の利権も、何一つ自分の手元には残らない。
残されたのは、真っ二つに割れたテーブルの瓦礫と、悪臭漂う別邸と、金を強請り続ける愛人だけ。
「う、嘘だ……」
本邸を追い出され、王都の冷たい風に吹かれながら、モーリスは血走った目で呟いた。
「嘘だ……ヒルダが俺を捨てるはずがない。あいつは半年間、俺に文句一つ言わずに尽くしていたんだぞ……! ただ意地を張って、俺を焦らせようとしているだけに決まっている!」
自らの愚行と罪を1ミリも認められない男は、歪んだ妄執にしがみついていた。
「直接会えばいい……。警備隊本部に押しかけて、俺の言葉で説得すれば、あいつは必ず泣いて許しを請うはずだ……!」
自分が手放したものが、どれほど眩しく、手の届かない場所へと駆け上がっているかも知らずに。
元夫となった男は、破滅への次なる一歩を、自ら踏み出そうとしていたのだった。




