第4話
翌朝の王都警備隊・第一演習場は、土と汗の匂いに満ちていた。
板張りの武道場ではなく、屋外に広がる吹きさらしの砂場。
そこに集まっていたのは、警備隊の中でも特に荒事を受け持つ『突入制圧班』の隊員、約三十名だった。
平民の用心棒上がりや、元冒険者の巨漢、歴戦の兵卒たち。誰もが筋骨隆々で、顔や腕に古傷を刻んだ歴戦の荒くれ者ばかりだ。
その男たちの前に、私は立っていた。
動きやすい麻の白稽古着に、黒いズボン。栗色の長い髪を高めの位置で一つに束ね、両手には革の薄手袋を嵌めている。
私の姿を見た瞬間、隊員たちの間から失笑が漏れ聞こえてきた。
「おいおい……総隊長が『腕利きの格闘指導員を連れてくる』って言うから期待してりゃ、なんだあの娘っこは」
「貴族のお嬢様じゃねえか。肌も白いし、線も細い」
「おいおいお嬢ちゃん、ここは王都の治安を守る警備隊の練兵場だぜ? 怪我しねえうちに、屋敷に帰って刺繍でもしてな」
口々に投げかけられる野次と侮蔑。
無理もない。王都の基準からすれば、私は背が高めというだけで、外見はどこにでもいる二十歳の令嬢にしか見えないのだろう。
列の先頭から、ひときわ巨大な男が前に進み出てきた。
身長は二メートル近く、体重は百キロを優に超えているだろう。丸太のような腕を組み、ニヤニヤと下品な笑みを浮かべて見下ろしてくる。突入班の力自慢、ガッツ伍長だ。
「お嬢ちゃん、悪いこたぁ言わねえ。俺が一発軽く小突いただけで、その華奢な骨がポキッと折れちまう。総隊長の手前、恥はかかせたくねえからよ、自分から『辞退します』って言――」
「準備運動は終わった?」
私が遮ると、ガッツは呆気にとられたように瞬きをした。
「あ?」
「おしゃべりは十分でしょう? 採用試験の審査官の方々もお待ちですもの。怪我をしないように、しっかり受け身を取ってくださいね」
「んだと、この小娘が……ッ! 舐めやがって!」
激昂したガッツが、砂煙を上げて突進してきた。
体重を乗せた、岩をも砕くような右の剛腕フック。普通の人間なら風圧だけで腰を抜かす一撃だ。
だが――。
北方の冬山で、猛スピードで突っ込んでくる暴走猪に比べれば、あまりにも軌道が素直で、遅すぎる。
「ふっ」
私は半歩だけ左前へ踏み込み、迫り来る拳の内側へと滑り込んだ。
ガッツの目が驚愕に見開かれる。
私の左手が、彼の分厚い手首を蛇のように絡め取り、右手が彼の帯革のバックルをがっちりと捉えた。
「――よっと」
掛け声は、井戸から水を汲み上げる程度に軽やかだった。
私は腰を沈め、全身のバネを一気に解放した。
「ぬぉっ……!? な、浮い――!?」
百キロを超える巨漢の体が、信じられない軽さで宙に持ち上がった。
両足が完全に地面を離れ、逆さまの状態で頭上に掲げられる。
演習場が一瞬で凍りついた。
隊員たちの嘲笑が、喉の奥で引き攣った音を立てて消え失せる。
私はそのまま、手首のスナップと腕力を効かせて、ガッツの体を真下へ向かって豪快に叩き込んだ。
ズッシャァァァァンッッ!!
砂場に激震が走った。
砂塵が派手に舞い上がり、ガッツは頭から砂に突き刺さるような形で、見事な逆立ち状態で静止した。
数秒後、バタリと横倒しになり、白目を剥いてピクピクと痙攣する。
「……次の方、どうぞ?」
私が埃を払って笑顔を向けると、隊員たちの顔から一斉に血の気が引いた。
「ば、化け物……!」
「おい、片手でガッツを持ち上げやがったぞ!?」
「ひるむな! 全員で囲んで組み伏せろ!」
プライドを打ち砕かれた血気盛んな荒くれ者たちが、四人がかりで四方から飛びかかってくる。
左右からのタックル、背後からの羽交い締め、正面からの突進。
「ふふ、いい気迫ね!」
私の血が、半年ぶりに歓喜の音を立てて沸騰した。
正面の男の突進力を利用して右へ受け流し、足を払って前のめりに転がす。
背後から迫る男の袖を掴み、背中越しに豪快な巴投げで頭上を通過させ、正面の男と激突させる。
ドガッ! バキッ! ドズゥン!
砂煙が舞い散る中、私の身体は舞い踊るように滑らかに動き、触れた男たちを次から次へと遠心力と剛力で宙へ放り投げていった。
わずか一分後。
演習場には、砂まみれになって悶絶する三十人の巨漢たちと、息一つ乱さず涼しい顔で腕まくりをしている私だけが立っていた。
「……ふう。いい汗をかいたわ」
私が前髪をかき上げると、最初に投げ飛ばされて目を覚ましたガッツが、這いつくばったまま私の足元へにじり寄ってきた。
その瞳には、侮蔑など微塵もなかった。
あるのは、純粋な、底知れない恐怖と――熱狂的な崇拝の光だった。
「あ……姐さん……ッ!」
「はい?」
「俺たちが悪うございましたッ! その神がかりの怪力と体術、ぜひ俺たちにご教授くださいッ! 一生ついていきます、姐さん!!」
ガッツが砂に額を擦り付けて平伏したのを皮切りに、倒れていた隊員たちが全員一斉に飛び起き、砂場の上で綺麗に正座して一斉に頭を下げた。
「「「姐さん! ご指導よろしくお願いしますッ!!」」」
地鳴りのような咆哮。
あまりの豹変ぶりに、私は思わず苦笑いをこぼした。
「パチ、パチ、パチ」
その時、静まり返った演習場の入り口から、重厚な拍手の音が響いた。
振り返ると、黒革の隊服の上着を脱ぎ、白いシャツの袖を捲り上げたベルンハルトが歩み寄ってくるところだった。
胸元がわずかに開いたシャツの下から覗く、鋼のように鍛え上げられた鎖骨と胸板。
その紫水晶の瞳は、爛々と青い炎を燃え滾らせていた。
「見事だ、ヴァンベルク嬢。試験は満点合格。我が隊の指導員として、これ以上の適任者は王国のどこを探してもおるまい」
「ありがとうございます、総隊長殿」
「……だが」
ベルンハルトは隊員たちの前で立ち止まると、ゆっくりと腰の佩剣を外し、近くの木棚へ置いた。
「隊員たちの練度確認は済んだ。次は――私と一手、願おうか」
ざわり、と演習場の空気が張り詰めた。
正座していた隊員たちが青ざめ、小声でざわめき出す。
「お、おい……総隊長自ら組み手をやる気かよ……」
「姐さん、逃げたほうがいいぜ! 総隊長は剣も素手も人間離れしてるんだ、熊だって素手でへし折る化け物だぞ……!」
隊員たちの忠告を聞きながら、私の心臓がドクンと跳ねた。
恐怖ではない。
全身の細胞が粟立つような、強烈な興奮だった。
「……受けて立ちますわ、総隊長殿」
私は砂を踏みしめ、腰を深く落として構えた。
ベルンハルトもまた、音もなく間合いを詰め、低く構えを取る。
――速い!
ベルンハルトの踏み込みは、先ほどの隊員たちとは次元が違っていた。
瞬き一つの間に私の懐へ侵入し、鉄の丸太のような右腕が私の胴を刈り取りにくる。
私は咄嗟に上体を反らせてかわし、彼の左腕の袖を掴んで背負い投げの体勢に入った。
ガッツを軽々と放り投げた、絶対の自信を持つ私の必殺の軌道。
――投げる!
私は全身のバネを使い、一気に背中で跳ね上げようとした。
だが。
「……っっ!?」
動かない。
まるで、大地に深く根を張った樹齢千年の大樹を背負ったかのように、ベルンハルトの身体は一ミリたりとも浮き上がらなかった。
完璧な脱力と、驚異的な重心の低さ。私の怪力を、彼自身の体幹が完全に受け流し、相殺しているのだ。
「悪いが、私の重心はそう簡単には崩れん」
耳元に、低く掠れた声が降ってきた。
次の瞬間、ベルンハルトの逞しい足が私の軸足を払った。
体勢を崩した私を、彼の太い腕が逃げ場のない力強さで抱え込み、そのまま砂場へと押し倒す。
ドサリ。
柔らかな砂の上に、私の背中が落ちた。
痛くはなかった。彼が倒れる瞬間、私の後頭部に自分の大きな手を滑り込ませて、衝撃を完全に殺してくれたからだ。
だが――。
「…………っ」
私の視界は、ベルンハルトの屈強な胸板で埋め尽くされていた。
私の両手首は彼の片手で頭の上に押さえ込まれ、私の腰の上には、彼の重厚な体重がしっかりと乗せられている。完全な抑え込みの体勢。
至近距離で重なり合う吐息。
白檀と、鍛え上げられた男の汗の匂い。
見上げる彼の紫水晶の瞳が、射抜くように私を捕らえて離さない。
動けない。
どんなに力を込めても、彼が覆い被さるその圧倒的な重みと力には、指一本すら抗うことができなかった。
――うそ。
――私より……強い……!?
ドクン、ドクン、と胸の奥が激しく波打った。
北方の寒村で、男たちを全員投げ飛ばし、「お前は女じゃない、木こりの化け物だ」と気味悪がられてきた私。
自分より強い男なんて、この世界のどこにもいないと諦めていた。
それなのに。
今、私を完全に力でねじ伏せ、上から見下ろしているこの男の腕の中が、信じられないほど心地よく、熱かった。
「……見事だった」
ベルンハルトは荒い息を吐きながら、真剣そのものの瞳で私を見つめていた。
「私の踏み込みに瞬時に反応し、袖を捉えたあの判断速度。そして、倒れ際にも受け身を忘れない体幹のしなやかさ……。やはり君の体術は、息を呑むほど美しい」
「……」
「鍛え上げられた君のその広背筋は、王国のいかなる宝剣よりも気高く、尊い」
大真面目な顔で、とんでもない口説き文句を放つベルンハルト。
熱い胸の鼓動のせいで顔が真っ赤になりかけた私は、照れ隠しに唇を尖らせて睨み返した。
「……あの、総隊長殿?」
「何だ」
「組み手を解いてから褒めていただけますかしら? ……重いですわ」
「…………っ!」
ベルンハルトは雷に打たれたように目を見張り、自分がどれほど際どい体勢で私の上に覆い被さっていたかに、今更気づいたらしい。
サッと青ざめ、次の瞬間には耳まで真っ赤になって、飛び退くように私から離れた。
「す、すまないッ! 技の検証に夢中になるあまり、淑女に対する礼を失した……!」
「ふふ、いいえ。手加減のない本気の組み手、とても楽しかったですわ」
私が砂を払って立ち上がると、正座していた隊員たちがヒソヒソと肘をつつき合っていた。
「おい見ろよ、総隊長があんなに狼狽えてるの初めて見たぞ」
「顔、真っ赤じゃねえか……」
「姐さんに完全に骨抜きにされてるな……」
隊員たちの温かい(そして少しからかい混じりの)視線に包まれながら、私は胸の奥に灯った確かな熱を感じていた。
――この人となら、やっていける。
ううん、もっとこの人の強さを知りたい。
私が新しい日々に胸を躍らせていた、その頃。
私が荷物をまとめて出ていったフォークナー家の別邸では、自業自得という名の、救いようのない地獄の幕が上がっていたのだった。




