第3話
王都警備隊本部の司法聴取室は、磨き上げられた石壁と鉄格子の窓に囲まれ、しんと静まり返っていた。
部屋の中央の長机を挟んで、私と、顔面蒼白のモーリス、そして鼻の頭を赤くしたベリンダが並んで座らされている。
机の向こう側に座るのは、警備隊総隊長のベルンハルトではなく、眼鏡をかけた初老の厳格な男――王都司法局から派遣されている独立監察官の男だった。
ベルンハルトは部屋の隅、腕を組んで壁際に直立し、ただ厳然と事の推移を見届けている。
「――では、双方の事情聴取および現場の検証記録に基づき、本件の裁定を申し渡す」
監察官が羊皮紙の調書をトントンと机で揃え、まずベリンダを一瞥した。
「トレンス準男爵令嬢ベリンダ。貴女は『全身の骨が折れた』と主張し刑事告発を求めたが、衛生兵および専属医師の厳密な診断の結果、外傷は軽度の臀部打撲のみと確定した。また、正妻の居住する私邸へ不法に立ち入り、正妻を離れへ追い出そうと扇動・挑発した事実は明白である。貴女の虚偽申告および不法行為については、後日トレンス家へ厳重注意の勧告書を送付する」
「そ、そんな……! 私、投げ飛ばされた被害者ですのにぃ……!」
ベリンダが涙目で抗議しようとするが、監察官は冷淡に手で制した。
「次に、フォークナー子爵嫡男モーリス。貴殿が婚姻関係にある正妻の権利を著しく侵害し、別邸へ愛人を引き入れて退去を強要した点、ならびに激昂して配偶者へ先制打撃を試みた点は、王国の婚姻道徳法および治安法規に対する明白な違反である。貴殿の暴行未遂の事実も、調書に明確に記録された」
「ぐっ……! し、しかしだな、監察官! 実際に暴力を振るい、屋敷を破壊したのはそこのヒルダだぞ! 俺の家をあんな滅茶苦茶にしておいて、無罪放免など絶対に認めんぞ!」
モーリスが机を叩いて喚く。
監察官はため息をつき、今度は私の方へ視線を向けた。
「ヴァンベルク男爵令嬢ヒルダ」
「はい」
「貴女の行為についてだが……相手方の不法な居座り要求、ならびに配偶者からの著しい侮辱と先制攻撃の着手という情状は十分に酌量される。また、相手方に重傷を負わせず、羊毛絨毯の上に着地させるなど一定の手加減が認められる点から、刑事施設への収監や前科といった重罰には処さない」
モーリスが「なんだと!?」と叫ぶが、監察官の宣告はそこで終わらなかった。
「ただし――いかに挑発されたとはいえ、相手が物理的攻撃を加える前に実力を行使して他者を投げ飛ばした行為は、法秩序の逸脱である。よって行政過料として金貨二十枚の罰金を科す。さらに、夫の打撃に対する応戦とはいえ過剰な力で私邸の銘木テーブルを損壊した件について、原状回復の民事賠償金として金貨五十枚――計金貨七十枚の納付を命じる。納付期限は二ヶ月以内とする」
金貨七十枚。
庶民が一年暮らせる大金だ。
「……妥当な裁定ですわね」
私は深く頷いた。
手加減に失敗して他人の(厳密には実家の金も入っているが)テーブルを真っ二つにしたのだから、壊した分の弁償と罰金を払うのは当たり前だ。相手を痛快にシバいたツケとしては、極めて公正と言える。
だが、問題が一つあった。
「(……手持ちの現金、銀貨数枚しかないわ)」
私の持参金は、フォークナー子爵家との共同管理口座に入ったままだ。モーリスの同意がなければ引き出せないし、あいつが素直にハンコを押すはずもない。
北方の実家に手紙を書けば、父は喜んで金を送ってくれるだろう。だが――自分の喧嘩の始末を親の金でつけるなど、北方の武門ヴァンベルク家の名が廃る。絶対に自分の力で払いたい。
「どうした、払えないのか!?」
私の沈黙を「支払い不能」と見たモーリスが、勝ち誇ったように嘲笑った。
「金貨七十枚だぞ! お前のような持参金頼みの筋肉女に、ポンと払える額じゃないだろう! おい監察官、払えないなら今すぐこいつを労役場へ送れ!」
「期限は二ヶ月後と定めてある。今すぐ騒ぎ立てるな、フォークナー卿」
監察官が一喝し、聴取は一旦終了となった。
* * *
聴取室を出て、警備隊本部の長い廊下を歩いていると、後ろからコツコツと規則正しい軍靴の音が近づいてきた。
「ヴァンベルク嬢」
振り返ると、総隊長のベルンハルトが立っていた。
相変わらずの彫刻のような無表情だが、その紫水晶の瞳はまっすぐに私を見つめている。
「総隊長殿。先ほどは取り乱した現場をお見せして失礼いたしました」
「いや、見事な制圧だった。……ところで、金貨七十枚の納付だが」
「ええ、少し考え中ですの。実家に泣きつくのは性に合いませんし、王都で二ヶ月で金貨七十枚を稼げる仕事を探さなくては」
私が腕を組んで唸っていると、ベルンハルトは胸ポケットから一枚の公的な布告用紙を取り出し、私に差し出してきた。
「これを見ろ」
「これは……?」
「王都警備隊における、対人制圧術および徒手格闘の特別訓練指導員の公募要項だ」
紙面には、王国印とともに『募集:実戦近接格闘指導員 日当および特別技術手当支給』と書かれていた。金額の欄を見ると、目が飛び出るような高給が記載されている。
「警備隊の隊員は剣術には長けているが、市街地での暴徒鎮圧や、武器を持たない相手を無力化する体術に乏しい。数ヶ月前から専門の指導員を外部から一般公募していたのだが、隊員たちを力でねじ伏せられる適任者がおらず、空席のままだった」
ベルンハルトは真面目な顔のまま、淡々と告げた。
「貴殿のあの体幹、重心移動、そして相手に致命傷を負わせずに無力化する投擲技術は、まさに我が隊が求めている技能そのものだ。もちろん、私が職権で採用を決めるわけにはいかん。だが、明日の採用試験に貴殿が自由意思で応募し、正規の合格を勝ち取るならば――二ヶ月勤務すれば、過料と賠償金の七十枚など余裕で完済できる」
ベルンハルトの言葉に、私は目を見張った。
職権を濫用して罰金をチャラにするのではなく、私の『腕っぷし』を正当に評価し、自力で稼ぐ道を提示してくれたのだ。
「……私を、警備隊の指導員に?」
「貴殿の技術は、金貨七十枚どころの価値ではないと私は見ている」
ベルンハルトは至極真面目に、熱を帯びた瞳で言った。
「職権で罪を免除することはできん。だが、自らの腕で誇り高く稼ぎ、責任を果たす道なら提示できる。……どうだ、応募するかどうかは貴殿の自由だが」
「応募するに決まっているじゃない!」
私は満面の笑みで叫んでいた。
「身体を動かして、荒くれ者を投げてお金がもらえるなんて、私にとって天職ですわ! 喜んで試験を受けさせていただきます!」
「そうか。……ならば良かった」
ベルンハルトが安堵したように、ほんのわずかに口元を緩めた。
そして、なぜか視線を斜め下へ逸らしながら、咳払いをひとつして付け加えた。
「ちなみに……指導員には、隊の宿舎の女子区画が即日あてがわれる。三食の賄い付きだ。肉の配給量も多い」
「お肉!? 最高ですわ!」
思わず握り拳を作って喜ぶ私を見て、ベルンハルトの耳が、またしても分かりやすく赤く染まっていた。
* * *
その日の夕方。
警備隊本部から王宮司法局、そして双方の実家へ送られた公式調書は、王都の貴族社会に凄まじい衝撃波をもたらしていた。
まず動いたのは、北方の我が実家――ヴァンベルク男爵家だった。
調書を受け取った父から、電送魔導通信による怒号のようなメッセージが、フォークナー子爵家の本邸へ叩きつけられたのだ。
『我が愛娘を別邸から追い出し、愛人を引き入れた挙句、先に手を出して返り討ちに遭っただと!? 恥を知れ! 即刻、我が娘との婚姻を解消せよ! さもなくば、王国軍へ納入している北方の魔獣革、ならびに防寒鉱石のフォークナー子爵家経由の卸契約を、今この瞬間をもって全面停止する!!』
北方の利権を失えば、フォークナー子爵家の財政は大打撃を受ける。
青ざめたフォークナー子爵(モーリスの父)は、怪我をして別邸にいたモーリスを本邸へ呼び出し、顔面を殴り飛ばしたという。
『この大馬鹿者が! ヴァンベルク男爵家の支援があってこそのお前の新婚生活だったのだぞ! 愛人を連れ込むなど言語道断だ!』
明白な不貞の証拠と警備隊の調書を前に、子爵家側に抗弁の余地は微塵もなかった。
その日のうちに、両家の当主間による正式な離縁調停、ならびに王室教会への婚姻解消の届出手続きが、電光石火の速さで開始されたのだった。
* * *
夜。私は別邸へ戻り、自分の私物だけを手早く整理していた。
持ってきた衣類と、愛用の手入れ道具。それらをトランク二つに詰め込み、リビングへ降りる。
真っ二つに割れたテーブルの横で、顔に湿布を貼り、腕を吊ったモーリスが、ソファーから私を睨みつけていた。
「お、おい! 勝手に出ていく気か!? 父上から離縁調停の書類が届いたぞ! 俺は認めん! お前が俺に謝罪して、ヴァンベルク家に取引を再開させるのが筋だろうが!」
「まだ寝言を仰っているのですか、モーリス様」
私はトランクを両手に軽々と持ち上げ、冷ややかな視線を投げ捨てた。
「調停の手続きはすでに両家の当主間で進んでおります。貴方がいくら喚こうと、不貞の証拠が公的に残っている以上、覆りませんわ。……ああ、それから」
私は割れたテーブルの残骸を指差した。
「そちらの弁償金と罰金は、二ヶ月以内に私の力できっちり支払いますのでご安心を。では、ごきげんよう」
「ま、待て! おいヒルダ! 誰の金で暮らしていけると思って――」
喚き散らす別居中の夫の声を背中に聞き流しながら、私はバタンと別邸の重い扉を閉めた。
夜風が心地いい。
明日からは、警備隊の宿舎暮らし。
そして、あの無骨で真っ直ぐな総隊長のもとでの、指導員生活の始まりだ。
「さあ……明日の採用試験、張り切って荒くれ者たちを投げ飛ばしてあげなきゃね!」
夜空を見上げ、私は胸を躍らせながら、力強く足を踏み出したのだった。




