第2話
静寂が、粉々に砕け散ったリビングを支配していた。
突入してきた十数名の警備隊員たちは、抜刀した剣を構えたまま、誰一人として動けずにいた。
彼らが通報を受けて想定していたのは、おそらく凶悪な強盗団の押し入りか、あるいは泥酔した暴漢の立てこもりだったのだろう。
だが、現実にそこに広がっていたのは――。
厚手の羊毛絨毯の上で、両手両足を広げてカエルのように伸びている派手なドレスの女。
真っ二つに叩き折れた樹齢百年のオーク材テーブルの残骸に突っ込み、瓦礫にまみれて「あぐっ、あぐっ」と喉を鳴らしている屋敷の若旦那。
そして部屋の中央で、優雅なレースの手袋を外して腕まくりをし、乱れた前髪をふうっと吹き上げている、長身の若妻が一人。
「……そ、総隊長」
先頭の隊員がおそるおそる、震える声で後ろの上官を振り返った。
「暴漢は……どこにも見当たりません。被害者と思われる男女が二名、そして……あちらのご婦人が一人、立っておられますが……」
「見れば分かる」
低く、よく通る声が返ってきた。
警備隊員たちがさっと左右に分かれ、道を開ける。
ゆっくりとリビングの中央へ歩み出てきた男――ベルンハルト・フォン・アイゼンハルト総隊長は、まず足元の惨状を一瞥した。
割れたテーブルの断面。
飛び散った木片。
絨毯にめり込んだ靴跡の深さ。
それらを瞬時に視線で計測したあと、彼の紫水晶の瞳が、まっすぐに私を捉えた。
「…………」
無言。
彫刻のように整った厳しい顔筋はピクリとも動かない。
だが、至近距離で対峙した私には分かった。
男の黒髪の隙間から覗く耳朶が、まるで焼けた鉄のように真っ赤に染まっているのを。
――な、何かしら、この人。
怒っているの? それとも呆れているの?
私が身構えていると、ベルンハルトは喉仏をひとつ上下させ、掠れたような、しかし信じられないほど真剣な低音で呟いた。
「……見事な下半身の安定感だ。両足の幅、足裏にかかる体重の分散、そして広背筋から腰へと至る一切の無駄がない重心の配置……。あの重量の銘木を一撃で両断するには、よほど強靭な体幹と、卓越した投擲技術がなければ不可能だ」
「は……?」
あまりにも予想の斜め上をいく感想に、私の口から気の抜けた声が漏れた。
周囲の警備隊員たちも「えっ、そこ!?」という顔で総隊長を二度見している。
だが、その奇妙な空気は、瓦礫の山から這い出してきた男の醜悪な叫び声によって打ち破られた。
「け、警備隊ッ! 警備隊員かッ! 助けてくれえええっ!」
モーリスだった。
顔中に木屑と埃をまぶし、高級な私服の上着を引き裂かれた夫が、這うようにしてベルンハルトの足元へすがりついた。
「捕らえろ! 今すぐその野蛮女を捕らえろ! 見ろ、俺のこの腕を! ねじ切られそうになったんだ! 殺人未遂だ、明らかな殺人未遂だぞ! 俺はフォークナー子爵家の嫡男モーリスだぞ! こんな狂暴な女、今すぐ王宮の最深部の地下牢へ叩き込め!」
唾を撒き散らしながら喚き立てるモーリスの横で、絨毯に転がっていたベリンダも目を覚ましたらしい。
後頭部を押さえながらよろよろと起き上がり、ベルンハルトの姿を認めるや否や、これみよがしに涙をぽろぽろと零し始めた。
「う、ううっ……! 総隊長様ぁ……! 私、死ぬかと思いましたぁ……! 奥様が突然、鬼のような形相で襲いかかってきて……! 私、手首も足も、全身の骨が全部折れてしまったかもしれませんわぁ……!」
わざとらしく肩を震わせ、弱々しくベルンハルトを見上げるベリンダ。
男の庇護欲をそそる完璧な演技だ。普通の文官や若い兵士なら、ころりと騙されて同情したかもしれない。
だが、ベルンハルトの瞳は氷のように冷徹だった。
「隊の衛生兵、あの女性の容態を検分しろ」
「はっ!」
駆け寄った衛生兵が、ベリンダの手足を手早く触診する。
ベリンダは「痛いですぅ〜!」と悲鳴を上げてみせるが、衛生兵はすぐに立ち上がり、呆れたように敬礼した。
「報告します。骨折、脱臼、激しい外傷の類は一切認められません。厚手の羊毛絨毯が衝撃を吸収したため、せいぜい尻と背中に軽い打撲を負った程度です。生命の危機どころか、全治数日の軽微な痛みにとどまります」
「なっ……!?」
ベリンダの顔が引きつった。
私は腕を組み、ふんと鼻を鳴らす。
「当たり前でしょう。手加減して投げたんだから。本当に殺す気なら、絨毯の上じゃなくて石造りの暖炉の角に頭から叩き落としてるわよ」
「ひぃっ……!」
ベリンダが悲鳴を上げてモーリスの背中に縮こまる。
モーリスが激昂して私を指差した。
「聞いたか総隊長! 本人が自白したぞ! こいつは平然と暴力を振るう狂人だ! 正当防衛の余地すらない、一方的な凶行だ!」
喚き散らす夫に対し、私は言い訳ひとつ口にしなかった。
ただ姿勢を正し、ベルンハルトの紫水晶の瞳をまっすぐに見据えて口を開いた。
「言い逃れをするつもりはありません、警備隊長殿。事実関係を正確に申し上げます」
私は壊れたテーブルと、転がる二人を順に指差した。
「まず、私がそこの愛人ベリンダの襟首を掴み、背負い投げで絨毯に叩き伏せました。これが最初です。次に、それを見て激昂した夫のモーリスが、私に向かって右の拳を振り上げて殴りかかってまいりました。私はその拳を受け止め、腕をねじり上げて応戦し、彼をテーブルへ向かって投げ飛ばしました。その結果、テーブルが損壊いたしました」
一切の虚飾のない、ありのままの事実。
隊員たちがざわつく中、モーリスが勝ち誇ったような声を上げた。
「ほら見ろ! 先に手を出したのはこいつだ! 俺の家で、俺の愛する女性に暴力を振るったんだ! 重罪だ、極刑にしろ!」
ベルンハルトはモーリスを一瞥もしなかった。
ただ、手帳を持った司法巡査に淡々と命じる。
「調書を記録しろ。現場の状況、および双方の供述の照合だ」
ベルンハルトの低く通る声が、荒れ果てたリビングに響き渡った。
「まず、フォークナー子爵嫡男モーリス。貴殿が正妻の許可なく、私邸に愛人を無断で連れ込み、正妻たる夫人を離れへ不当に退去させようとした点。これは王国の婚姻法における重大な義務違反、ならびに配偶者に対する不法な権利侵害に該当する」
「な……!?」
「さらに、夫人の反撃に対し、自ら拳を振り上げて先制攻撃を試みた点も、夫人の供述と貴殿の右腕の筋肉の緊張状態から明白だ」
モーリスの顔から血の気が引いていく。
だが、ベルンハルトはそこで言葉を切ると、今度は私の方へと向き直った。
その視線には、私情も甘さも一切なかった。
法を司る、厳格な執行官の瞳だった。
「しかし――ヴァンベルク男爵令嬢ヒルダ」
「はい」
「いかに相手に著しい背信行為や言葉の挑発があろうと、相手が物理的危害を加えていない段階において、先に実力を行使して他者を投げ飛ばした行為は、王国の治安維持法における『暴行罪』に該当する。また、夫の打撃に対する応戦であったとはいえ、加えた力の規模が過剰であり、高価な調度品を粉砕した行為は『器物損壊』の責任を免れない」
ベルンハルトの言葉は、冷徹なまでに正論だった。
私が暴れた理由に同情はしても、法を曲げて「お咎めなしの正当防衛」などと嘘八百で片付ける気は毛頭ないのだ。
――ああ、この人、本物だ。
職権を乱用して身内を庇うことも、権力に媚びて子爵家の顔色を窺うこともしない。
ただ法と事実の前に、全員を平等に立たせている。
その清々しさに、私の胸のすくような思いがした。
「ええ、その通りですわ、総隊長殿」
私は悪びれることなく、堂々と頷いた。
「相手の侮辱に腹が立って、つい手加減を忘れて投げ飛ばしてしまったのは私の完全な落ち度です。家具を破壊してしまったことも弁解の余地はありません。法に基づく処分があるなら、潔く受ける覚悟です」
そう言って、私は両の手首を揃えて前へ差し出した。
手枷をかけろ、という意味だ。
それを見たベルンハルトが、わずかに息を呑んだ。
その瞳に、驚きと、それ以上の深い感嘆の色が宿る。
「……言い訳をせず、自らの過ちと結果を引き受けるか。見事な気骨だ」
「痛快にシバいた後で、見苦しく言い逃れなんてしたくありませんもの」
私がからりと笑ってみせると、ベルンハルトの口元が、ほんのわずかに綻んだ。
だが、すぐに厳格な表情へ戻り、私の手首に手枷をかける代わりに、自らの大きな手でそっと押し戻した。
「手枷は不要だ。逃走の恐れなしと判断する。……ヴァンベルク嬢、ならびにフォークナー卿、トレンス嬢。双方とも、警備隊本部まで任意同行を願う。正式な聴取と、司法担当官による裁定を行う」
「な、なんだと!? 俺まで連行する気か!?」
モーリスが喚くが、警備隊員二名が無言でその両脇を固めた。
ベリンダも泣き言を言いながら、女性巡査に抱え起こされる。
リビングを出る際、ベルンハルトが私の隣に並んだ。
ふわりと、彼がまとう上質な革と白檀の香りが鼻腔をくすぐる。
無駄のない足取りで歩く彼の長身を見上げていると、不意に、ベルンハルトが前を向いたまま、ボソリと低い声で囁いてきた。
「……先ほどの背負い投げだが」
「はい?」
「相手の襟首の引きつけと、腰の差し込みの速度が完璧だった。……北方の実戦武術か?」
「ええ。冬山で猪を仕留める時に使う技ですわ」
「……素晴らしいな」
大真面目な顔で、心底感心したように頷くベルンハルト。
私は思わず吹き出しそうになった。
「あの……総隊長殿? 連行される容疑者相手に、取り調べの前に技の講評会をするのはおやめいただけませんかしら?」
「……む。すまない、あまりに見事だったものでな」
少しだけ居心地悪そうにそっぽを向いたベルンハルトの横顔は、やはり耳の先だけがほんのりと赤かった。
――強いだけじゃないのね、この人。
見栄ばかりで中身の空っぽだった夫とは、何もかもが違う。
波乱の幕開けのはずなのに、私の足取りは、半年間のどの瞬間よりも軽く、爽快だった。




