第1話
我慢というものは、溜め込みすぎるとろくなことにならない。
北方の寒村でヒグマと取っ組み合いをして育った人間なら、誰だって知っている真理だ。
けれど半年前、王都のフォークナー子爵家の嫡男――モーリス・フォークナーのもとへ嫁ぐ際、実家の母は私の手を握って涙ながらにこう言ったのだ。
『ヒルダ、王都の貴族社会は北方の砦とは違うのよ。貴女のその怪力と、猪を素手で絞め落とすような野蛮な癖は絶対に隠しなさい。良妻賢母とは、どんな理不尽にも微笑んで耐え忍ぶものよ』
母の言いつけはもっともだと思った。
だから私は、新婚生活のこの半年間、できる限り息を潜めて生きてきた。
木製のフォークをうっかり握り潰さないよう指先に全神経を集中させ、重いタンスを一人で軽々と持ち上げて模様替えしたい衝動をぐっと堪え、レースのついた窮屈なドレスを着て、夫の帰りを静かに待っていたのだ。
それなのに。
「――今日から、ベリンダをこの屋敷の新しい主とする。お前は今すぐ荷物をまとめて、裏庭の離れへ移れ」
平日の昼下がり。
夫のモーリスが別邸のリビングに連れ込んできたのは、薄桃色のフリルをふんだんにあしらったドレスを着た、見知らぬ若い娘だった。
二人はこれ見よがしに腕を絡ませ合い、当然の権利のように堂々とソファーの前に立っている。
娘の首元には、昨年の私の誕生日にモーリスが「実家の金庫から持ち出した古い安物だ」と言って押し付けてきたはずの、トパーズの首飾りが揺れていた。
「……聞き捨てならないお言葉ですね、モーリス様」
私は編みかけの毛糸のショールをテーブルに置き、静かに立ち上がった。
できるだけ穏やかに、母の言う『王都のしとやかな淑女』の微笑みを貼り付ける。
「この別邸は、私の実家であるヴァンベルク男爵家が持参金の一部として建築費を半分負担した新居です。なぜ正妻である私が、裏庭の物置同然の離れへ行かねばならないのですか?」
「まだ分からないのか、この野蛮女が!」
モーリスは吐き捨てるように言った。
端整な顔立ちを露骨に歪め、私をゴミクズでも見るような目で見下してくる。
「お前には可愛げというものが欠片もない! 肩幅は広いし、背筋は無駄に引き締まっているし、触れた時の柔らかさがない! 俺が求めているのは、男の手で守ってやりたくなるような、繊細で可憐な本物の淑女だ!」
「まあ、モーリス様ぁ。奥様に対して、そんな本当のことをズケズケ仰っては可哀想ですわぁ」
娘――ベリンダ・トレンス準男爵令嬢が、あざとく小首を傾げてクスクスと笑った。
上目遣いでモーリスの胸元に指を這わせながら、私に向かって勝ち誇ったような薄笑いを浮かべる。
「奥様、初めまして。私、体がとても弱くて……こんな広くて綺麗なお屋敷、奥様みたいなお強そうな方には勿体ないと思っていましたの。殿方の腕の中で守られる喜びを知らないなんて、女として哀れですわねぇ」
守られる喜び。
哀れ。
その言葉が、私の耳の奥にすとんと落ちた瞬間――。
頭の中で、ピンと張り詰めていた一本の鋼鉄のワイヤーが、鈍い音を立てて弾け飛んだ。
半年間。
フォークが曲がらないように、ドアノブを引きちぎらないように、夫の薄っぺらい見栄と軽薄な嫌味に耐えてきた、あの退屈で息苦しい日々。
――あ、我慢する必要、どこにもなくない?
視界が驚くほどクリアになった。
胸の奥底から、北方の凍てつく吹雪のような爽快な風が吹き抜けていく。
「……なるほど。状況はよーく分かりました」
私は両腕を胸の前で組み、パキパキと指の関節を鳴らした。
モーリスが怪訝そうに眉をひそめる。
「な、なんだその下品な仕草は。早く荷物をまとめて――」
「要するに、うちの厚手の羊毛絨毯の上に、どこの馬の骨とも知れないゴミが土足で上がり込んできたってことよね」
「は……? ご、ゴミだと!? 貴様、ベリンダを侮辱する気か!」
「ちょっと奥様ぁ! 私をゴミだなんて、酷すぎますぅ〜! モーリス様、怖いですぅ〜!」
ベリンダが嘘泣きをしながら、わざとらしくモーリスの背後に隠れようとした。
その瞬間だった。
「問答無用!!」
私は地を蹴った。
絨毯の毛足を踏みしめ、瞬き一つの間にベリンダの間合いへ潜り込む。
「えっ――」
ベリンダが驚愕に目を見開いた時には、私の右手が彼女の豪奢なドレスの襟首を、鷲掴みにしていた。
ヒグマを仕留める時に比べれば、羽毛のように軽い。
私は腰を低く落とし、体重を乗せて右肩を彼女の懐へ深く滑り込ませた。
美しい、完璧なフォームの一本背負い。
「ふぎゃああああああああっっ!?」
ベリンダの体が綺麗な弧を描いて宙を舞った。
ふわりと天井のシャンデリアスレスレまで飛び上がったかと思うと、重力に従って真っ逆さまに落下する。
ドズゥゥゥゥンッッ!!
分厚い羊毛絨毯が、衝撃を余すことなく受け止めた。
床がびりびりと振動し、ベリンダはカエルのような潰れた声を上げて、大の字になって白目を剥いた。
「ベ、ベリンダァァァッ!?」
背後でモーリスが絶叫した。
血相を変え、怒りで顔を真っ赤に染め上げた夫が、私に向かって拳を振り上げる。
「き、貴様ッ! 何をしやがる、この野蛮な狂犬女がァッ!!」
王宮文官の鈍重なテレフォンパンチ。
見切るまでもない。私は左手の手のひらで、その迫り来る拳を無造作にパシィン!と受け止めた。
「ぐっ……!? な、なっ……!?」
びくともしない私の手のひらを見て、モーリスの瞳に初めて本物の恐怖が宿った。
私はにっこりと、極上の笑顔を浮かべてみせる。
「妻に向かって拳を振るうなんて、ずいぶんと立派なご挨拶ね、旦那様?」
そのまま、受け止めた手首を雑巾でも絞るようにギリギリと逆方向へねじり上げた。
「ぎゃああああああああっ! お、折れる! 腕が折れるぅぅぅっ!」
「手加減はしてあげてるわよ。骨が折れる前に、頭を冷やしなさいな!」
私はモーリスの体をてこの原理で軽々と引きずり回し、部屋の隅へ向かって思い切り放り投げた。
宙を飛んだモーリスの体が、オーク材でできた頑丈な応接用ローテーブルへと一直線に激突する。
バキィィィィィッッッ!!
すさまじい破壊音が別邸に轟いた。
樹齢百年を超える銘木で作られた高級テーブルが、真ん中から真っ二つにへし折れ、木片が派手に飛び散る。
その瓦礫の中に埋もれ、モーリスは「あがっ……」と奇妙な呻き声を漏らして痙攣した。
「ふう……」
私は大きく息を吐き、乱れた前髪をふっと吹き上げた。
部屋を見渡す。
絨毯の上で泡を吹いて気絶している愛人。
真っ二つに割れたテーブルの残骸の中で、腰を押さえて転がっている夫。
「……あ」
ふと我に返り、私は割れたテーブルを見つめてぽりぽりと頬を掻いた。
「やっちゃった……。あいつらをシバくのは当然として、家具まで破壊するつもりはなかったんだけどな。……このテーブル、実家の父が『持参金の記念に』って贈ってくれた特注品だったかしら。弁償、高くつくかな……」
いくら理不尽な浮気と暴言に対する制裁とはいえ、相手に先に手を出したのは私だ。
北方の掟なら「先に喧嘩を売ってきた奴が悪い」で終わりだが、ここは王都。器物損壊と暴行の責任は、いくらなんでも免れないだろう。
その時だった。
ドガァァァン!!
正面玄関の扉が、外側から凄まじい勢いで蹴破られた。
「王都警備隊だ! 近隣より異音と悲鳴の通報あり! 双方、動くな!」
抜刀した十数名の警備隊員たちが、一斉にリビングへ雪崩れ込んでくる。
黒革の隊服に身を包んだ屈強な男たち。
そして――その先頭に立っていた男を見た瞬間、私の目が吸い寄せられた。
長身、漆黒の髪、鋭利な刃物のように引き締まった精悍な顔立ち。
隊服の上からでも一目で分かる、無駄な肉が一切削ぎ落とされた、しなやかで完璧な筋肉の鎧。
重心のブレがミリ単位たりとも存在しない、圧倒的な強者の立ち姿。
――うわ、すごい。
――めちゃくちゃ強い人だ……!
私が思わず見惚れていると、その先頭の男――王都警備隊総隊長ベルンハルト・フォン・アイゼンハルトは、倒れ伏す二人の男女を一瞥した。
そして、部屋の中央で腕まくりをし、涼しい顔で仁王立ちしている私へと視線を移した。
その瞬間。
冷徹無比と恐れられる総隊長の紫水晶の瞳が、カッと見開かれた。
「…………っ」
ベルンハルトは息を呑み、胸元を強く押さえた。
なぜかその切れ長の目元が、夕焼けのようにじわじわと赤く染まっていく。
破壊された応接間。
転がる愛人と、うめく夫。
そして、嵐のような惨状の真ん中で、私と最強の警備隊長の視線が、真正面から激突した。




