第14話
王都の東港に吹きすさぶ潮風は、冬の訪れを告げるように冷たく湿っていた。
石炭埠頭。
黒い粉塵が霧のように舞い散る波止場で、モーリス・フォークナーは泥混じりの長靴を引きずりながら、重い足取りで歩を進めていた。
かつて仕立ての良い上着を着ていたその肩には、油と炭で真っ黒に汚れた、擦り切れだらけの麻の作業着が張り付いている。
背中にずしりと食い込むのは、一袋で三十キロを超える石炭袋だ。
「おい、ぐずぐず歩くなモーリス! 船の荷揚げは時間との勝負だぞ! 早く運ばねえと、今日のパンの配給票を取り上げるぞ!」
現場の監督官が、手にした帳簿を叩いて怒鳴りつけた。
かつて王宮の執務室でふんぞり返り、平民の役人たちを顎で使っていたモーリスにとって、それは耐え難い屈辱のはずだった。
だが、今のモーリスには、言い返す気力すら残っていなかった。
「は、はい……すぐ、運びます……」
かすれ切った声で答え、荷車へと石炭袋を下ろす。
その瞬間、腰に電撃のような激痛が走り、モーリスは「あぐっ」と短く息を呑んで膝をつきそうになった。
ペン先より重いものなど持ったことがなかった文官の体だ。
二ヶ月間、毎日朝から晩まで重い石炭や鉄鉱石を運び続けた結果、白く滑らかだった両の手のひらは豆が潰れて血と垢にまみれ、背筋は慢性的な痛みに軋み続けている。
周囲の屈強な港湾労働者たちは、黙々と己の仕事をこなし、汗を流して誇り高く賃金を稼いでいた。
だが、モーリスは違う。
司法局の強制就労令によってここに送り込まれた彼は、日当の九割を名誉毀損賠償金と闇金への返済として強制的に天引きされている。手元に残るのは、一日の最低限の黒パン代と、吹きさらしの人夫長屋の寝床代だけだ。
この地獄のような生活を、これから十五年以上続けなければならない。
途中で逃げ出せば、待っているのは地下牢への終身収監だ。
「……あうっ」
昼の短い休憩の合図が鳴り、モーリスは冷え切った波止場の木箱の上に力なくへたり込んだ。
配給されたのは、石のように硬い黒パンの切れ端と、具のほとんど入っていない冷えた豆スープ。
煤で汚れた手でパンをちぎり、口に運ぶ。
じゃりり、と石炭の粉が奥歯に当たり、不味さと喉の渇きで涙が滲んだ。
――あの日々が、頭をよぎる。
フォークナー別邸で、ヒルダが整えてくれていた、あの温かく静かな生活。
朝になれば、完璧に磨き上げられた靴と、シワひとつのない清潔なシャツが用意されていた。
どんなに夜遅く帰っても、温かいシチューや香ばしい肉料理がテーブルに並んでいた。
重い家具の移動も、庭の力仕事も、ヒルダが笑顔で一人でこなしてくれていたから、自分は何不自由なく『優雅な貴族の文官』でいられたのだ。
『お前には可愛げがない』
『野蛮な筋肉女だ』
自分が放った、あの浅ましく傲慢な言葉の数々が、鋭い刃となって胸に突き刺さる。
「野蛮だったのは……俺の方じゃないか……」
黒パンを取り落とし、モーリスは泥まみれの両手で顔を覆った。
ヴァンベルク家という巨大な後ろ盾に甘え、彼女の献身にタダ乗りしていただけの無能な男。
自ら汗を流して働くこともせず、他人の力で見栄を張り、その恩人を「可愛げがない」と嘲笑った男。
その罰が、今、この全身の激痛となって返ってきているのだ。
ベリンダは北西部の鉱山付属使役所へ送られ、一日中、粗布を織る重労働に追われていると風の噂で聞いた。
だが、もはやあの女への怒りすら湧かなかった。
ベリンダを別邸に連れ込み、ヒルダを追い出そうと決めたのは、他ならぬ自分自身の浅ましい見栄と欲だったからだ。
「おい、みんな! 大通りへ行こうぜ!」
突然、波止場の労働者たちが道具を置き、歓声を上げて走り出した。
「アイゼンハルト総隊長とヴァンベルク令嬢の、婚礼警備パレードが通るぞ!」
「あの大闘技場で怪物を投げ飛ばした、怪力美姫の姐さんだな!」
「縁起物だ、見に行こうぜ!」
パレード。
婚礼。
その単語を聞いた瞬間、モーリスの心臓が早鐘のように打ち鳴らされた。
全身の痛みを忘れ、弾かれたように立ち上がる。
ふらつく足で、人々の波を追うようにして、港湾と大通りを隔てる石造りの広場へと駆け出した。
大通りは、色とりどりの小旗を持った市民たちで埋め尽くされていた。
鳴り響く祝砲。
華やかなブラスバンドのファンファーレ。
そして――大歓声の中心に、その隊列はあった。
先頭を進むのは、見事な毛並みの白馬に跨がった、一人の女性騎士だった。
「……あ……」
モーリスの喉から、声にならない吐息が漏れた。
そこにいたのは、神話から抜け出してきた戦乙女のように眩い、ヒルダの姿だった。
仕立ての良い深紅の上着に、磨き抜かれた白銀の胸当て。
秋の陽光を浴びて艶やかに波打つ栗色の髪。
無駄のない引き締まった背筋を堂々と伸ばし、馬上で手綱を操るその立ち姿は、息を呑むほどに気高く、神々しかった。
沿道から「姐さん!」「おめでとうございます!」と声が飛ぶたびに、ヒルダは白い歯をこぼし、満面の、太陽のような明るい笑顔で手を振って応えている。
その右手の薬指には、陽光を捉えて青白く輝く、最高純度のミスリルの指輪が嵌められていた。
そして、そのすぐ隣。
漆黒の軍馬に跨がり、誇らしげに彼女を守るように寄り添う男――ベルンハルト・フォン・アイゼンハルト。
冷徹無比と恐れられる総隊長が、ヒルダが少し視線を向けただけで、世界で一番大切な宝物を見るように、蕩けるほど甘く優しい笑みを浮かべていた。
国中の誰もが羨む、最強にして最高の夫婦。
市民たちの割れんばかりの祝福と、空を舞う色とりどりの花びら。
――あそこは。
――あの光り輝く場所は、本当なら……。
もし自分が、彼女の強さを誇りに思い、感謝を伝えていれば。
もし自分が、身の丈に合わない見栄を捨て、誠実に彼女の手を握り続けていれば。
あの太陽のような笑顔は、今も自分の隣で咲いていたはずだったのだ。
だが、すべては終わった。
自らの愚かな裏切りと、薄っぺらい傲慢によって、自分自身の手でドブの中へと放り投げたのだ。
「ヒルダ……ッ!」
モーリスは人垣を押し分け、石炭に汚れた手を必死に伸ばした。
「ヒルダァァァッ! 俺だ、モーリスだ! 悪かった……俺が悪かったよヒルダァッ! 頼むから、頼むからもう一度やり直してくれぇぇぇっ!!」
喉が張り裂けんばかりの絶叫。
だが、その声を発した瞬間、モーリスの足がもつれ、重い石炭袋の疲労に耐えかねて、泥水でぬかるんだ路面へと激しく突っ伏した。
バシャァッ!!
泥水が跳ね上がり、モーリスの顔面と口の中を黒く染め上げる。
「げほっ、ごほっ……! ヒ、ヒルダ……ッ!」
泥水に塗れ、這いつくばりながら、モーリスは必死に顔を上げた。
だが――。
鳴り響く大歓声とファンファーレにかき消され、モーリスの泥だらけの叫びなど、誰の耳にも届かなかった。
白馬に乗ったヒルダは、一度として振り返ることなく。
自分を心から愛してくれる最愛の夫とともに、眩いばかりの光の中を、堂々と進んでいった。
「あ……あああ……」
遠ざかっていく馬車の車輪の音。
舞い散る花びらの一片すら、泥水の中のモーリスの元には届かない。
これから一生、重い石炭を背負い、泥水を啜りながら、自ら捨てた至高の幸福を悔やみ続ける灰色の余生。
自業自得という名の逃げ場のない檻の中で、モーリスは泥の上に額を打ち付け、声の限りに咽び泣くことしかできなかった。




