第13話
夕日に染まる第一演習場に、心地よい静寂が広がっていた。
隊員たちが汗を流し、互いの健闘を称え合いながら宿舎へ引き揚げていく。
長かった二ヶ月の任期。
私は首にかけた手拭いで額の汗を拭い、腰の帯革を緩めて、深く息を吐き出した。
稽古着のポケットの中には、今朝、王都司法局の窓口で交付されたばかりの羊皮紙が一枚、大切に収められている。
『行政過料二十万セル、ならびに民事器物損壊賠償金五十万セル――完納証明書』
誰かに泣きつくことも、実家の名声にすがることもなく、己の拳と筋肉で三十人の荒くれ者を鍛え上げ、稼ぎ出した日当で最後の一銅貨まで清算し終えた証だ。
「……やり遂げたわ」
思わず呟いた声に、誇らしさが滲む。
フォークナー別邸で「野蛮だ」「可愛げがない」と己の強さを否定され、息を潜めていた半年間の息苦しさが、完全に過去の彼方へと消え去っていくのを感じていた。
「見事な完済だったな、ヒルダ」
背後から響いた低く温かい声に、私は振り返った。
黒革の上着を脱ぎ、隊服のベスト姿のベルンハルトが、夕日を背に受けてゆっくりと歩み寄ってくるところだった。
その紫水晶の瞳は、まるで宝物を見つめるように、穏やかで深い光をたたえている。
「ベルンハルト様。見ていてくださったのですね」
「ああ。君が最後の一日まで、一切の妥協なく隊員たちを投げ飛ばし、指導し切る姿をな」
ベルンハルトは私の目の前で足を止めると、形の良い口元をふっと緩めた。
「監察官も舌を巻いていたぞ。『あれほど潔く、期日より一週間も早く全額を耳を揃えて納付した者は前代未聞だ』とな。……君のその気高き責任感には、我が隊の全隊員が敬意を抱いている」
「ふふ、買い被りすぎですわ。元はといえば、私が手加減を忘れて家具を真っ二つにしたのが原因ですもの。自業自得のツケを払っただけです」
私がからりと笑ってみせると、ベルンハルトは小さく首を横に振った。
「その過ちから逃げず、言い訳もせず、自らの腕力で正面から責任を果たした。……それができる人間が、この王都にどれほどいると思う? 君は誇っていい」
「ベルンハルト様が、あの時この道を提示してくださったおかげです。本当に……感謝しておりますわ」
心からの礼を口にしながら、私はふと、夕暮れの空を見上げた。
茜色の空が、ゆっくりと藍色へと溶け合っていく。
「さて……これで私の任期も満了し、罰金も賠償もすべて終わりました。名実ともに、完全な自由の身です」
「……そうだな」
「明日からは警備隊の宿舎を出て、下町あたりに手頃な部屋を借りようと思いますの。指導員としての給与の貯金も少しありますし、王都で用心棒か鍛冶屋の助手でも探して――」
「待て」
私の言葉を遮るように、ベルンハルトの低い声が落ちてきた。
驚いて視線を戻すと、彼の表情から笑みが消え失せていた。
いつも冷静沈着な総隊長の顔に、珍しく焦燥の色が浮かんでいる。
「部屋を借りるだと? ……出ていくのか、ここを」
「え? ええ、当然でしょう? 指導員の契約は満了しましたし、いつまでも独身の私が男子ばかりの警備隊宿舎に居座るわけにはまいりませんもの」
「居座ってなどいない! 隊員たちも、誰一人として君に出ていってほしいなどと思ってはおらん!」
「でも、公私の区別はつけなくては。総隊長殿のお立場にも関わりますわ」
私が当たり前の理屈を告げると、ベルンハルトはぐっと言葉に詰まり、苦悶するように眉間を押さえた。
そして――深く、長く息を吸い込むと、その紫水晶の瞳に並々ならぬ決意の炎を宿らせた。
「……そうだな。君の言う通りだ」
ベルンハルトの声から、迷いが完全に消え去っていた。
「任期は満了した。君をここに縛りつける法的な理由は、もう何一つない。君を罰則や労務の枠に閉じ込めておくことは、私の本意ではない」
「ベルンハルト様……?」
彼の一挙手一投足に、ただならぬ緊張感が漂う。
ベルンハルトは夕日に染まる砂場を踏みしめ、私との距離を一歩詰めた。
そして――何の前触れもなく、彼はその長身を折り、私の目の前に静かに片膝をついた。
「えっ……!?」
息が止まった。
王都警備隊の総隊長であり、王国武門の頂点たるアイゼンハルト侯爵家の次男が、砂まみれの稽古着を着た私の足元に、恭しく跪いている。
「ベ、ベルンハルト様!? 何をなさって――」
「聞いてくれ、ヒルダ」
見上げてくるその瞳は、灼熱の熱情をたたえて揺るぎなかった。
彼はベストの胸ポケットから、黒革の小さな小箱を取り出し、パチンと静かな音を立てて蓋を開けた。
夕方の光を浴びて現れたのは――一本の指輪だった。
貴族の令嬢が好むような、繊細で華奢な金細工ではない。
青白い銀色の輝きを放つ、分厚く重厚な金属のリング。その中央には、燃え盛る火炎を閉じ込めたような、深く紅いルビーが埋め込まれている。
「これは……?」
「最高純度のミスリル合金だ。王都屈指の名工に、私の私費で打たせた」
ベルンハルトは大真面目な顔で、至極真剣に告げた。
「君がどれほど力いっぱい拳を握りしめようと、岩石を砕こうと、絶対に歪まず、傷一つ入らない強度を持たせてある。火竜の魔石から削り出したルビーは、北方の極寒の吹雪の中でも、決して熱を失わない」
「……」
「君の怪力でも、絶対に壊れない指輪だ」
壊れない指輪。
あまりにも彼らしく、あまりにも私の実態を理解しすぎているプロポーズの品に、私は驚きを通り越して、思わず吹き出しそうになった。
だが、笑いは喉の奥で止まった。
ベルンハルトの顔が、これ以上ないほど真摯な熱を帯びていたからだ。
「警備隊総隊長としての義務でもない。アイゼンハルト侯爵家の利害や、北方の利権のためでもない」
ベルンハルトは私の右手を、自らの大きな、タコだらけの温かい掌で包み込んだ。
「ただ一人の男として、君のその気高き強さに、誰よりも優しい心根に、私は魂の底から惚れ込んでいる。君のその誇らしい背筋も、豪快な笑顔も、迷いのない強さも……生涯をかけて、私が一番近くで守り、愛し抜きたい」
夕風が、二人の間を吹き抜けていく。
「君を縛るものは何もない。自由になった君に、今、私自身のすべてをかけて乞い願う」
ベルンハルトはまっすぐに私の瞳を見据え、はっきりと告げた。
「私の妻になってくれないか、ヒルダ」
――胸の奥が、熱い涙でいっぱいになった。
思い出すのは、かつてモーリスから浴びせられた言葉の数々だ。
『可愛げがない』『野蛮だ』『守る価値もない』。
自分の生まれ持った力も、生きてきた証もすべて否定され、息を殺すしかなかったあの半年間。
でも、この人は違った。
出会ったその日から、私の強さを誰よりも尊重し、私が自分の足で立ち、責任を果たす姿を信じて見守ってくれた。
壊れない指輪を用意して、片膝をつき、私の意思を何よりも尊んで求めてくれた。
この人となら。
この、不器用で、誰よりも真っ直ぐで、私より少しだけ背中が広い男となら。
私は私のままで、どこまでも笑って生きていける。
「……ベルンハルト様」
私は溢れそうになる涙をぐっと堪え、満面の、これ以上ないほど豪快な笑顔を咲かせた。
「そのミスリルの指輪、一生外さない覚悟はおありかしら?」
「当然だ。死ぬまで外させん」
「よろしいですわ!」
私は力強く胸を張り、彼の手の中にある指先をぐっと伸ばした。
「不器用で堅物なあなたを、一生かけてシバき倒して……ううん、一生かけて愛してあげますわ!」
ベルンハルトの紫水晶の瞳が、歓喜に見開かれた。
青白いミスリルの指輪が、私の右手の薬指へと滑り込む。
驚くほど滑らかに、私の指の太さに寸分の狂いもなく吸い付き、ぴったりと収まった。
「……ヒルダ!」
ベルンハルトが立ち上がり、私の腰を引き寄せて、そのまま軽々と抱き上げた。
くるりと夕日の中で一回転させられ、砂場の上に下ろされる。
至近距離で重なり合う視線。
彼の大きな手が私の項へと滑り込み、熱い吐息とともに、唇が深く重なり合った。
夕焼けの赤が、二人を黄金色の光で包み込んでいく。
甘く、力強く、どこまでも確かな誓いの口づけ。
「……愛している、ヒルダ」
「私もよ、ベルンハルト様」
二人の間に、もう何の隔たりもなかった。
来月には、アイゼンハルト侯爵家とヴァンベルク男爵家の正式な婚約披露、そして国中を挙げた盛大な婚礼が執り行われることが、この瞬間に確定したのだ。
◇
その頃。
夕闇が迫る王都の東港――冷たい潮風と、石炭の粉塵が舞い散る過酷な泥濘の波止場で。
背中を丸め、泥水の中に膝をつきながら、遠く鳴り響く警備隊本部の祝砲の音を、虚ろな瞳で見上げる一人の男の姿があった。




