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夫の浮気相手、問答無用でシバキ倒しました  作者: 九葉(くずは)


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第12話

 冷たい秋雨が降りしきる中、モーリス・フォークナーは泥まみれになりながら別邸へと辿り着いた。


 鍵を差し込み、軋んだ音を立てて扉を開ける。

 だが、薄暗いリビングに足を踏み入れた瞬間、モーリスの目に飛び込んできたのは、床に広げられた大きな革のトランクと、その前で慌ただしく立ち回る女の姿だった。


 ベリンダだ。

 彼女は部屋の飾り棚から銀の燭台を引きずり下ろし、サイドボードの引き出しを乱暴に引っ掻き回して、金目の貴金属や小銭をトランクへ手当たり次第に放り込んでいた。


「……おい、ベリンダ。お前、何をしている?」


 モーリスの低く掠れた声に、ベリンダはビクリと肩を跳ね上がらせた。

 振り返った愛人の顔には、かつて見せていた甘ったるい笑顔の欠片も残っていない。濡れた髪を振り乱し、鬼気迫る形相でモーリスを睨みつけてきた。


「なによ、帰ってきたの。……見れば分かるでしょう、荷造りよ。こんな呪われた屋敷、一秒だっていられるもんですか」

「荷造りだと……? その銀器や宝石は、俺の屋敷の物だぞ! 勝手に持ち出すな!」

「あんたの物ぉ!?」


 ベリンダは手にした銀の小箱を床に投げ捨て、ヒステリックに甲高い金切り声を張り上げた。


「寝言言ってんじゃないわよ、この役立たず! あんた、実家から勘当されたんですってね!? 門前で子爵様に杖で殴られて、身ぐるみ剥がされて放り出されたって噂、もう王都中に広まってますわよ!」

「なっ……!?」

「文官もクビ、貴族籍も剥奪、借金は山積み! そんなただの無一文の平民に、誰が付き合ってあげるっていうのよ! これは私の慰謝料よ! あんたに騙されて裁判に巻き込まれた手切れ金として、全部私が貰っていくわ!」

「誰が騙しただとッ!?」


 モーリスの頭の中で、完全に何かがブチ切れた。

 泥まみれの靴でリビングの床を踏み荒らし、トランクを蹴り飛ばしてベリンダに掴みかかる。


「誰のせいで俺が破滅したと思ってんだ! お前が『あの筋肉女を追い出せ』と唆したんだろうが! 裁判で嘘泣きして『全部モーリスに脅された』と裏切ったのはどこのどいつだ! この恩知らずの売女め!」

「痛いっ! 放しなさいよ、この無能男!」


 ベリンダが鋭い爪を立て、モーリスの頬を力任せに引っ掻いた。

 赤い血が滲み、モーリスが激痛に呻く。

 だがモーリスも怯むことなく、ベリンダの豊かな巻き毛を鷲掴みにし、床へと引きずり倒した。


「痛い! 髪が抜ける! 離せ、離せぇぇっ!」

「誰が逃がすか! 俺の人生を滅茶苦茶にしておいて、一人で逃げられると思うなよ! お前も道連れだ、一緒に地獄へ落ちろ!」

「あんたが甲斐性なしだからでしょうが! 女一人養えないくせに偉そうに威張り腐って! ヒルダ様にシバかれた時も情けなく泣き叫んでたくせに、何が子爵嫡男よ! この豚野郎!」


 二人は床を転がり回りながら、互いの服を引き裂き、泥と埃にまみれて掴み合った。

 割れたテーブルの破片が肌を裂き、投げつけられた陶器の皿が粉々に砕け散る。

 かつて「守ってやりたい可憐な女」と「頼れる裕福な子爵様」と呼び合い、ヒルダをあざ笑っていた二人の成れの果て。そこに残っていたのは、醜悪極まりない責任の擦り付け合いと、剥き出しの憎悪だけだった。


 ドガァァァン!!


 その時、玄関の扉が凄まじい音を立てて蹴破られた。


「双方、動くなッ!」


 怒号とともに踏み込んできたのは、王宮司法局の執行官と、武装した四名の憲兵だった。

 そしてその背後には、冷笑を浮かべた『銀獅子商会』の取り立て屋が控えている。


 取っ組み合いの姿勢のまま固まるモーリスとベリンダ。

 司法執行官は荒れ果てたリビングを一瞥し、侮蔑に満ちた目で羊皮紙の令状を広げた。


「ベリンダ・トレンス」

「ひっ……!?」


 執行官の冷徹な声が響いた。


「貴族院法廷における重大なる偽証罪、虚偽診断書の行使、ならびに司法妨害の罪により、王室司法局より正式な刑期執行命令が下された。貴女を本日付をもって王都より追放し、北西部鉱山付属の公的使役所への五年間の強制労役を命ずる」

「な……っ!? しょ、使役所……!?」


 ベリンダの顔から、完全に血の気が引いた。

 公的使役所。

 犯罪者や重債務者が送られ、荒れ果てた鉱山や作業場で泥にまみれて粗布を織り、過酷な労働に従事させられる国の労役施設だ。美貌と贅沢だけを生きがいにしてきた女にとって、それは死刑宣告にも等しかった。


「嫌……! 嫌よ、そんなところ絶対に行きたくない! 私、準男爵令嬢よ!? モーリス、助けて! なんとか言ってよ、モーリスぅぅっ!」


 ベリンダが泣き叫びながらモーリスの足元に縋り付く。

 だが、モーリスは鼻で嗤い、その手を冷酷に蹴り飛ばした。


「自業自得だ、この寄生虫が。一生そこで泥水を啜ってろ」

「モーリスゥゥッ! あんた、絶対に許さないわよ! 呪ってやる、末代まで呪ってやるからあああああっ!!」


 憲兵たちに両腕を捻り上げられ、手枷をはめられたベリンダは、髪を振り乱して絶叫しながら、雨の降る外へと引きずり出されていった。

 彼女の贅沢三昧の夢は、自らのついた嘘と強欲によって、完全に潰え去ったのだ。


 ベリンダが連行され、モーリスは胸を撫で下ろした。

 だが――執行官の冷たい視線は、まだ部屋から去っていなかった。


「……次は貴殿だ、モーリス」

「え……?」


 モーリスの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。

 司法執行官が、もう通の令状を取り出す。


「貴殿に対する名誉毀損賠償金八百枚、ならびに国庫への重過料の未納。さらに、銀獅子商会より提出された金貨七百枚の民事債務督促申立書だ」

「な、何を言っているんだ! 俺は実家から勘当されたんだぞ! 財産なんて一銅貨もない!」

「知っている」


 執行官は無表情に告げた。


「フォークナー子爵家からの除籍が確認されたため、子爵家本邸への請求は法的に遮断された。よって、この千五百枚を超える負債は、すべて貴殿個人に帰属する。……無一文を理由に踏み倒すことは許されん」


 後ろに控えていた銀獅子商会の取り立て屋が、獰猛な笑みを浮かべて前に出た。


「そういうこった、モーリス君。財産がねえなら、身体で稼いでもらうしかねえよなぁ?」

「な……っ!?」

「司法局の強制就労令に基づき、貴殿を明日より王都東港の石炭および鉄鉱石荷揚げ現場へ配属する」


 執行官の宣告は、容赦がなかった。


「日当の九割は、賠償金と借金の返済に強制天引きされる。手元に残るのは、一日の最低限のパン代と安宿代のみだ。完済するまで、王都からの逃亡は一切禁ずる。逃亡を試みた場合は、即座に地下牢への終身収監に切り替える」

「ば、馬鹿なッ! 俺は王宮の文官だぞ! ペンしか握ったことがないんだ! あんな野蛮で汗臭い肉体労働なんて、できるわけがないだろうがァッ!」


 モーリスは床を叩いて泣き叫んだ。

 だが、執行官は眉一つ動かさず、足元へ一着の粗末な麻の作業着を投げ捨てた。


「かつて貴殿が『野蛮だ』と見下していた者たちの流す汗によって、貴殿の生活が支えられていたのだ。……今度は貴殿自身が、自らの手で泥にまみれて責任を果たす番だな」

「あ……ああ……」


 取り立て屋の用心棒に襟首を掴まれ、立ち上がらせられるモーリス。

 プライドも、地位も、着ていた服すら奪われ、手元に残されたのは泥だらけの麻の作業服と、一生かかっても返しきれない莫大な借金の山だけだった。


 雨が降りしきる王都の空の下、モーリスは護送馬車へと押し込められ、港の粗末な人夫長屋へと連行されていった。

 自らの身勝手な傲慢が招いた現実から、もはや逃げる道はどこにも残されていなかった。


 * * *


 その頃。

 王都警備隊本部の訓練場では、爽やかな秋風が吹き抜けていた。


「よし、本日の対人制圧訓練はここまでだ!」


 私の号令に、隊員たちが一斉に「ありがとうございましたッ!」と力強く敬礼を返してくる。

 二ヶ月にわたる特別指導員の任期。

 荒くれ者たちを投げ飛ばし、体幹を鍛え上げた日当により、私は本日、器物損壊の賠償金と行政過料を、最後の一銅貨まで自力で完済し終えたのだ。


「ふう……やり切ったわね」


 私がタオルで首元の汗を拭っていると、訓練場の向こうから、凛々しい足取りで歩み寄ってくる人影があった。


 夕日に照らされた黒髪と、紫水晶の瞳。

 警備隊総隊長――ベルンハルト・フォン・アイゼンハルトだった。


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