最終話
婚礼から一年が過ぎた、初夏の朝。
アイゼンハルト侯爵邸の広大な敷地内に設けられた私設演習場には、朝露を吹き飛ばすような気迫の叫びと、激しい砂煙が立ち込めていた。
「ハァッ!!」
鋭い呼気とともに、白の稽古着をまとった私の身体が地を蹴る。
対峙するのは、黒の稽古着の袖を捲り上げた、我が愛する夫――ベルンハルト・フォン・アイゼンハルトだ。
鋭利な刃物のような踏み込み。
ベルンハルトの長い右腕が、私の襟元を捕らえんと電光石火の速さで伸びてくる。
私はその剛腕を半歩下がって首を傾けてかわし、流れるような動作で彼の左手首を両手で巻き込んだ。
そのまま腰を沈め、相手の懐深くへと滑り込む。
「甘いわよ、ベルンハルト様!」
「くっ……!?」
一年間、毎朝のように組み手を重ねてきたからこそ分かる、彼の重心のわずかな揺らぎ。
私は全身のバネを爆発させ、背中越しにベルンハルトの強靭な巨躯を一気に跳ね上げた。
北方のヴァンベルク流・大背負い。
ドズゥゥゥゥンッッ!!
演習場の柔らかな砂煙が派手に舞い上がった。
王都警備隊総隊長であり、王国最強の剣士たる男が、見事な放物線を描いて背中から砂場へと叩きつけられる。
完璧な一本。
「ふふん! 私の勝ちね、ベルンハルト様!」
私は腰に両手を当て、胸を張って勝ち誇った。
砂の上に大の字になったベルンハルトは、天井の青空を見上げながら、呆然と息を吐き出した。
そして――。
「……参った」
口元に、たまらなく愛おしそうな、蕩けるような笑みが浮かんだ。
ベルンハルトは砂を払いながらむくりと起き上がると、立ち尽くす私の腰を両腕で引き寄せ、そのままひょいと軽々と抱き上げた。
「きゃっ!? ち、ちょっとベルンハルト様!?」
「手加減なしの見事な重心移動だった。……やはり君の体術は、世界で一番美しく、愛おしい」
「もう、高い高いをしないでくださいまし! 子ども扱いはおやめになって!」
じたばたする私を、ベルンハルトは抱き上げたまま、慈しむようにその額に口づけを落としてくる。
至近距離で見つめ合う紫水晶の瞳には、一年経った今でも少しも色褪せることのない、熱烈な情熱が宿っていた。
「ヒューヒュー! 姐さん、今朝も一本勝ちだァッ!」
「総隊長、朝からごちそうさまです!」
「いいぞー! もっと惚気けてくれー!」
演習場の周囲を取り囲んでいた警備隊の隊員たち――出稽古に来ていたガッツ伍長たちが、一斉に指笛を鳴らし、手を叩いて大歓声を上げた。
ベルンハルトは私をそっと地面に下ろすと、隊員たちに向き直り、一瞬でいつもの冷徹な鉄面皮へと戻った。
「……貴様ら、見学中に私語とはいい度胸だな。集中力が足りん。全員、腕立て伏せ二百回追加」
「「「えええええええっっ!? 理不尽だァァァッ!!」」」
悲鳴を上げて砂場に突っ伏す隊員たち。
その賑やかでコントのようなやり取りに、私は思わず吹き出してしまった。
* * *
稽古を終えて汗を流したあと、私たちは本邸のテラス席で、初夏の爽やかな風に吹かれながら朝食のテーブルを囲んでいた。
テーブルの上には、香ばしく焼き上げられた焼きたてのパンと、肉厚のソーセージ、新鮮な野菜のサラダ、そして湯気の立つ澄んだコンソメスープが並んでいる。
別邸で息を潜めていたあの半年間が、まるで遠い前世の出来事のように思えるほど、私の日常は満ち足りていた。
「身体の調子はどうだ、ヒルダ。先ほどの投げ技で、手首に負担はかかっていないか?」
「ええ、まったく問題ありませんわ。毎日美味しくお肉をいただいているおかげですもの」
ベルンハルトが淹れてくれた温かい紅茶を口に含み、私はふうと息を吐いた。
アイゼンハルト侯爵家の若妻となった現在も、私は警備隊の『筆頭特別指導員』としての役職を続けている。
貴族院の重鎮たちの中には最初、「侯爵夫人が兵卒を投げ飛ばすなど前代未聞だ」と難色を示す者もいた。だが、決闘裁判で見せた私の実力と、警備隊の劇的な治安向上実績、そして何よりベルンハルトの「我が妻の才能を閉じ込める法など王国には存在せん」という一喝によって、誰も文句を言えなくなったのだ。
王都の市民たちも今や、街で見回りをする私を見かけると「怪力美姫の姐さん!」「今日も頼むぜ!」と親しみを込めて声をかけてくれる。
北方の実家との関係も極めて良好で、アイゼンハルト侯爵家を通じて供給される防寒鉱石と魔獣革は、王国軍の防衛力を劇的に底上げしていた。
――我慢を、やめてよかった。
ふと、あの日――新婚半年の別邸のリビングのことを思い出す。
愛人を引き連れて現れ、『可愛げのない筋肉女』『離れへ移れ』と傲慢に言い放った、元夫のモーリス。
あの時、もし私が「良妻賢母たらん」と自分を騙し、理不尽に耐え、あの部屋で泣き寝入りしていたなら。
今頃、私は心を擦り減らし、自分の生まれた意味すら見失って、暗闇の底で泣いていたに違いない。
理不尽には、問答無用で拳を叩き込んでよかったのだ。
手加減に失敗して家具を壊しても、逃げずに自分の足で立ち、自分の力で責任を果たしてよかった。
自分の誇りを捨てなかったからこそ、私はこの手で、本物の幸せを掴み取ることができたのだから。
「ヒルダ?」
物思いに耽っていた私の顔を、ベルンハルトが心配そうに覗き込んできた。
その逞しい手がテーブル越しに伸びてきて、私の右手を優しく包み込む。
私の薬指には、最高純度のミスリルで打たれた、頑丈な指輪が朝露のように輝いていた。
一年間、どれほど激しい組み手を交わしても、どれほど重い岩を持ち上げても、傷一つ、歪み一つついていない、私たちの絆の証。
「……何を考えていた?」
「あの日、愛人と元夫をシバき倒した時のことですわ」
私が悪戯っぽく微笑むと、ベルンハルトは紫水晶の瞳を細め、喉の奥でくすりと笑った。
「そうか。……私にとっては、生涯で最高の幸運だった日だな」
「まあ。人が家具を真っ二つにして大立ち回りを演じた現場を、最高の幸運だなんて」
「事実だ。あの日、あのリビングで、乱れた前髪を吹き上げながら仁王立ちしていた君を見た瞬間……私の心は、完全に奪われていたのだからな」
ベルンハルトは立ち上がり、私の隣へと歩み寄ってきた。
大きな手が私の首筋へと滑り込み、引き寄せるようにして、温かい体温が私を包み込む。
「君のその強さが好きだ。迷いのない気高さが好きだ。誰よりも温かく、真っ直ぐな魂が好きだ。……君のすべてが、私の誇りだ、ヒルダ」
「ベルンハルト様……」
耳元で囁かれる、深くて甘い熱情。
大人の男の温かい吐息に、私の背筋が甘く痺れていく。
もう、誰かの顔色を窺って自分を押し殺す必要はない。
私の怪力も、私の背筋も、私の豪快な笑い声も、この人は丸ごと愛し、誇りにしてくれているのだから。
「……ふふ。私も、世界一強くて不器用なあなたが大好きよ」
私は彼の上品な首筋に両腕を回し、その引き締まった胸板へと身を委ねた。
ベルンハルトの腕が、力強く私の腰を抱きしめ返す。
「生涯、君を離さん」
「ええ。もし浮気でもなさったら、今度はあなたをあの壁ごと一本背負いでブチ抜いてあげますわ」
「……それは手厳しいな。肝に銘じておこう」
ベルンハルトが幸せそうに笑い、そして――愛おしさに耐えかねたように、私の唇へと深く、優しく口づけを落とした。
降り注ぐ初夏の光。
ミスリルの指輪に宿る火竜のルビーが、永遠に消えない炎のように、眩く輝いていた。
理不尽をぶっ飛ばし、自分の拳と意思で掴み取った、本物の愛。
私たちの騒がしくも温かい毎日は、これからも力強く、どこまでも続いていくのだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
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