【文書 0267】押収文書 第A-37号
資料種別:印刷物(A5判、簡易製本、表紙なし)
資料名 :『迎えるということ ── 新生物史における連続性について』
第二章「自然史としての変態」抜粋
著者 :中村哲也
押収日 :再編3年3月21日
押収場所:第一居住区 北区 旧家屋 / 押収対象は旧人類男性
(68歳、退職教員、転化していない)
押収部隊:警察庁公安部 第二課
分類 :機密指定2級
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【押収経緯】
対象者宅から、転化に関する文書を所持しているとの匿名通報あり。
家宅捜索の結果、本印刷物の他に、新人類側からの通信を示唆する書類は確認されず。対象者は本印刷物の取得経路について、「封鎖区画近くの市場で、誰かが置いていったものを拾った」と供述。
対象者の取り調べでは、文書の内容についての理解度が高く、転化を肯定的に検討していた形跡が認められたが、新人類との直接接触は確認されなかった。
対象者は再編3年4月、起訴猶予処分とし、釈放。
ただし、継続監視対象に指定。
【抜粋内容】
──第二章「自然史としての変態」より
生物の歴史を振り返るとき、我々は常に「変化を経た側」に立つ。
我々の祖先は単細胞であった。次に多細胞となり、脊椎を持ち、陸に上がり、毛を生やし、二足で歩き始めた。
これらの変化のいずれにおいても、変化の「前」の存在は、
変化の「後」を望んだのではない。望むことができなかった。
彼らには、変化後の形態を想像する能力がなかったからだ。
しかし、変化は起きた。
彼らの望みとは独立に、生物史は進行した。
そして、我々はいま、変化の結果として存在している。
──
これは残酷だろうか。
私は、残酷ではないと考える。
変化は、生命の本来的様式であるからだ。
変化を拒むことは、生命を停止させることと等しい。
──
旧人類が我々を恐れるのは、当然である。
それは、原生動物が多細胞化を恐れるのと同じである。
我々のなかに、彼らが失うものを見ているからだ。
しかし、彼らが失うものは、本当に「失う」のか。
我々は記憶を保持している。人格を保持している。
我々が転化したとき、転化前の私は消えなかった。
私は、いま、これを書いている。
これは、十八年間 国立感染症研究センターで研究を続けた、
私という人間が書いている。
連続している。
切れているのではない。
──
旧人類が、いつかは新人類になる。
これは予言ではない。確率論的必然である。
変化は始まった。
始まった変化は、止まらない。
止まらない変化のなかで、我々ができることは、ただ一つ。
それを、「敵対」ではなく、「継承」として受け止めることである。
──
【押収者欄外メモ】(書き込み筆跡、本書の所有者と推定)
「私は教師だった。
四十年間、子どもたちに、未来を考えるよう教えてきた。
いま、私自身が、未来をどう考えるのかを試されている」
「家内が三年前に死んだ。
もう、待つ人もいない。
ならば、私は、何を選んでもよいはずだ」
「ただし、自分で選びたい。
誰かに命令されてではなく」
【整理者注】 本文書の押収対象者(68歳・元教員)は、転化を自発的に検討して いたことが、押収時の取り調べおよび欄外メモから明らかである。
当時の法体系下では、自発的転化を計画することは、明文の違法行為 ではなかった。しかし、関連文書の所持は監視対象とされていた。
対象者はその後、再編3年7月に自宅で死亡しているのが発見された。 死因は心不全と判定された。新人類との接触は確認されなかった。
ただし、彼の最後の数ヶ月の行動については、事実究明委員会の 後年の聞き取りで、近隣住民から「以前より穏やかで、何かを決めた ような様子だった」との証言が複数得られている。




