【文書 0008】私的記録(押収・分類済み)
資料番号:PRV-X-088
資料種別:手書きノート(家庭用ノート、罫線、緑色表紙)
記録者 :氏名不詳(女性、推定30代、第一北区在住)
発見日 :再編2年9月(地震後の家屋整理時)
発見場所:第一北区赤羽地区 旧家屋
【表紙裏に記載】
名前を書かない。誰のものでもなくなるように書く。
たぶんもう、誰も読まない。
書かないと忘れる。忘れたら、死んだことになる。
──
再編元年8月15日
夫が戻らなくなって、十二日が経った。
近所のおばあさんが、玄関のドアを叩いて、息子の名前を呼んでいた。
息子は二週間前から見ていない。
ニュースは止まった。
水道もガスも止まっている。
でも電気は時々来る。誰かが直しているのか、それとも勝手に
復旧する瞬間があるのか。
外に出るのは、台所の窓から見える限り、危険だ。
うちの庭で、男の人が一人、立っていた。動かない。
昨日も同じ姿勢で立っていた。私はカーテンを閉めた。
──
再編元年8月17日
ラジオで「重感染症緊急事態」という言葉を初めて聞いた。
政府は東京の中心部に避難するよう呼びかけている。
でも、どうやって行けばいいのか、誰も教えてくれない。
外で銃声がする。何度も、何度も。
あれは警察か、自衛隊か、それとも別の何かか。
──
再編元年8月23日
冷蔵庫の中のものが、もうほとんどない。
昨日、勇気を出して、隣の家のドアを叩いた。
返事はなかった。
でも、玄関のドアが開きかけていた。中を見た。
奥の部屋に、誰か、立っていた。
目が、光っていた。
黄色だった。金色だった。
私は走って戻ってきた。
ドアに鍵をかけて、ベッドの下に隠れた。
今、ここで、これを書いている。
──
再編元年8月25日
外で、誰かが私の名前を呼んでいる気がする。
でも、夫の声ではない。
息子の声でもない。
窓を見ない。
窓を見たら、何かが、こちらを見ている気がする。
──
【記録ここで途絶】
──
【整理者注】
本ノートはこの後の頁が空白である。
記録者の生死、その後の所在は、現時点まで判明していない。
赤羽地区は再編元年9月、応急防衛線の外側として封鎖された。
当該地区から東京居住区に避難した記録のある人物の中に、
本ノートに記載のある人物像(30代女性、夫子持ち)と
完全に一致する者は確認されていない。
【補記】
本ノートは、特別衛生局が再編2年9月に実施した
封鎖区画外縁部の地区整理において収集した民間文書の一つ。
当時、同局は拡大期の混乱状況の記録として、
民間人の遺留品・日記類の一部を回収・保管していた。




