ストレートの秘密
屈辱感にまみれた四番打者は、〈殺し屋の目〉で若林を睨みつけながら、ダグアウトに戻って行く。ベキッという音がした。三宅さんがグラウンドにバットを叩きつけたのだ。特注モデルをへし折ってしまうとは、高給取りはもったいないことをする。
若林は平然としていた。ガッツポーズをとるかと思ったが、それらしき素振りも見せない。相変わらずのポーカーフェイスである。これが、ルーキーの〈普段通りの投球〉なのだろう。
今シーズン初勝利まで、あと1アウトだ。スタンドから「あと一人」コールが沸き上がる。甲子園球場におけるタイガースのお株をとった形だ。
俺の全身に心地よい緊張感が広がっていく。浮足立ってはいけない。あと一人から地獄に落とされるのが、野球というスポーツである。俺は落ち着くために、深呼吸をする。キャッチャーは常に冷静であらねばならない。
三宅さんへのラストボールは、特に〈切れ〉がよかった。ベースの手前からグンと加速して、俺のミットに飛び込んできた。
正確にいえば、加速したわけではない。ピッチャーが投げるボールは空気抵抗を受けるために、例外なく減速する。ピッチャーの手を離れた瞬間より、ベースの手前の方が速いということは、物理学上ありえないのだ。
ただ、古賀さんや三宅さんの目には、加速したように見えたはずである。それは一体、なぜなのか? 俺は「スピードガン表示は味方」と言った。実は、バックスクリーンに表示されるスピードガンの数字は、初速にあたる。
実は、若林のストレートは、減速の度合いが驚くほど小さい。ここに、特殊さの秘密がある。若林のストレートは2、3キロしか減速しないのである。つまり、初速136キロの球は、134キロでバッターの前に到達することになる。
この事実が、バッターの目の錯覚を生み出し、まるで加速したように感じさせるのだ。一般的に〈球の切れ〉や〈球の伸び〉と呼ばれている現象である。
指先を離れた瞬間に136キロのスピードなら、バッターは反射的に「自分の手元に届く頃には126キロに減速する」と判断して、タイミングを合わせようとする。
だが、実際には2キロしか減速せず、134キロでやってくるわけだ。そうなると、タイミングがずれてしまい、振り遅れるし、まるで球が加速したように感じるのだ。
これが若林のストレートの秘密である。それでは、他の投手とどこが違うのだろうか? 若林のストレートに出会ってから、この謎を解明しようと務めてきた。俺の話に興味をもった先輩がいた。
同じ大学時代の大先輩である。専門は空気力学なのだが、現在は野球のパフォーマンス分析をおこなっている。若林のストレートをデンマーク製の精密機械で測定してもらうと、驚くべき結果が判明した。
若林のストレートは美しい縦回転で、強烈なバックスピンがかかっていたのだ。しかも回転数が驚異的だったという。普通の投手は平均すると毎分2200回転ぐらいらしい。では、若林のストレートの回転数はどうだったのか?
何と2500回転もしていたのだ。この数字はNPBのトップクラスであり、メジャーリーグでも一握りしかいない。
若林は華奢な外見とは裏腹に、類稀な能力をもつ投手なのだ。身体的に恵まれていないのに、なぜ、高速回転のストレートを投げることができるのか?
全身のバネを利かせた投球フォーム、人並み外れた指と手首の柔らかさなどが、理由として挙げられるが、本当のところは誰にもわからない。
ただ、若林は子供の頃から、平均以下の身体的能力をカバーするために、「強い球を投げる」というイメージを追及してきた。その努力を長年積み重ねた結果、この2500回転のストレートを編み出したのである。
だが、球は同時に、このストレートは、大きな弱点を持ち合わせている。俺はそのことを、次打者に思い知らされることになった。
五番打者の六車さんである。五年連続20本塁打以上。三宅さんに次ぐ長距離ヒッターだ。不動のレギュラー捕手であり、読みの確かさにおいては三宅さんと同レベルである。一発要注意の相手であることは間違いない。




