5月10日と7月3日
ネクストバッターズサークルの俺は、それを確かに見た。若林はホームベースに滑り込んだ後、東さんを見て大胆にも、ニヤリと笑ったのだ。
「エースのくせに、ここで暴投ですか」と、言いたげな嘲笑だった。
クールな東さんの顔が、みるみる真っ赤になっていく。スパイクでグラウンドの土を思い切り蹴り上げた。冷静沈着な絶対的エースがこれほど感情的になるなんて、これまでに一度もなかったことである。
三塁手の古賀さんが駆け寄って、しきりになだめているが、東さんの気持ちが収まらない。若林の態度に対する怒りや三試合連続完封は消えたことよりも、まんまとルーキーの罠にはまった自分自身が許せないのだろう。
若林から試合後に説明を聞いてわかったのだが、東さんの暴投は若林が仕掛けて呼びこんだものだった。少し時間を巻き戻して、若林が仕組んだ罠を再現してみよう。
三塁ランナーの若林はブツブツと何事か呟いていた。その呟きの内容は東さんには聞こえなかったが、気になっていたのだろう。だから、古賀さんがマウンドに来た時に問いかけたのだ。
「三塁ランナーの若僧は何を呟いているんですか?」
古賀さんは口元をグラブで隠しながら、耳にした呟きについて伝える。
「意味不明だ。『5月10日、7月3日』、二つの日付を何度も繰り返している」
「5月10日、7月3日?」
「気にするな。ランナーは無視。バッターに集中だ」
この時、二つの日付は、東さんの脳裏に焼き付けられた。知らず知らずのうちに、周到な罠にからめとられていたのだ。若林によると、この罠は一流投手にしか通用しないという。例えば、昨シーズンの登板日を全て思いだせるような記憶力がないと、効果がないのだ。
絶対的エースは当然、二つの日付の記憶をさぐる。例えば、こんな具合だ。
「昨シーズンの5月10日と7月3日か。どちらも登板日だったが、パイレーツ戦ではなかった。5月10日は、ドラゴンズを8回1失点に抑えて勝ち投手。7月3日はベイスターズに6回4失点で負け投手だ。この二試合に、何があった?」
東さんの正面では、三塁ランナーの若林がリードをとっており、視線が合うので自然と、ルーキーの口元が目に入る。もう一度、二つの日付を呟いたのがわかった。
「5月10日と7月3日の俺に、何があった? あの若僧は何を伝えている?」
その瞬間、東さんにはわかった。若林の呟きの意味を、明確に理解したのだ。
「若僧め、そいつはいくら期待しても無駄というものだ。昨年、投手部門のタイトルを独占した男が誰なのか、まさか知らないのか」
絶対的エースの心は、ルーキーへの怒りに染め上げられる。
「年に数回だけなんだよ。俺様の暴投ってやつは」
昨シーズンは165イニングスを投げたが、たったの2回だけ。その日付が5月10日と7月3日だった。普通に投げていれば、暴投などするわけがない。
なのに、絶対的エースの手から投じられた4球目は、ベース手前でバウンドしてしまい、暴投という結果になってしまったのである。
試合後に、若林は俺に言った。
「東さんは僕を意識していたから、特に効果的でしたよ。一流の投手なら、暴投をした日付が頭の中に残っています。そのために日付を聞いただけで、暴投したシーンを脳裏のスクリーンに思い描いてしまう。心理学の専門用語で、スキーマと呼ばれるものです。厄介なことに、スキーマの呪縛から逃れることは、どんな人間にも不可能なんですよ」
「頭の中で暴投シーンを思い浮かべたせいで、暴投をしてしまったというのか?」
「暴投してはいけないと考えれば考えるほど、暴投のスキーマは活性化します。一旦そうなってしまうと、無意識の大きな流れに逆らうことはできません。思考が身体を縛ってしまい、その結果、東さんは暴投をしでかした」
「まさか冗談だよな、若林」
「結果は見ての通りですよ。何があっても心を乱さず、これまでずっと繰り返してきた普段通りのピッチングを行う。それが投手の基本です。ただ、絶対的エースのメンタルは思いのほか脆かったみたいですね」




