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瀬戸内海でもっとも大きな島  作者: 坂本光陽
メンタル

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48/56

周到な罠


 東さんは顔をしかめて、右手を見つめていた。焦りから、球を握り損ねたのかもしれない。もっとも記録はエラーなので、ノーヒットノーランは続行中である。6点差があるため、ピンチというわけでもない。


 二塁ベース上の若林は、腰に手を当てて悠然としている。相変わらずのポーカーフェイスだ。ルーキーにとっては、普段通りのプレーをしたにすぎない。6点差をつけられても気を緩めず、試合に集中しているのだ。


 とりあえず、パイレーツは初めて得点圏にランナーを進めた。次打者の小湊さんが出塁すれば、九番に入っている俺まで回ってくる。

「絶対に打ってやる」と、静かに闘志を燃やしていた。


 だが、ルーキーは別の方法を考えていたようだ。東さんがボールをセットして、小湊さんに第一球を投じようとした時、若林がいきなり走ったのだ。ネクストバッターズサークルの俺も驚いたが、右打席の小湊さんはもっと驚いただろう。それでも、わざと空振りをして、ルーキーの三盗を援護した。


 タイガースの捕手、ベテランの六車さんは送球しなかった。完全に投球モーションを盗まれていたため、投げても間に合わなかったからだ。

 これで、二死三塁である。スタンドからパイレーツファンの歓声がわいた。

「せめて一点をもぎとるんや!」と、切実な叫びも上がった。


 パイレーツのダグアウトはざわついていた。若林が独断で盗塁をしたせいだ。コーチから叱責を受けるだろうが、ナインを鼓舞する効果はあっただろう。試合をあきらめかけていた先輩連中に、自分は全然あきらめていないという明確なメッセージだ。


 一方、東さんは苛立たし気に、マウンドの土をスパイクで蹴りつけていた。絶対的エースがルーキーに、しかも投手に、完全にモーションを盗まれたのだ。これ以上の屈辱はない。落ち着かせるためにショートストップも宮野がマウンドに行きかけたが、東さんはグラブを振って、「来るな」と追い返した。


 東さんは間違いなく平常心を失っている。これは千載一遇のチャンスかもしれない。心の乱れをついて攻め立てれば、球界一の投手であっても潰せるはずだ。何といっても、「野球の90%はメンタル」なのだから。


 どうやら、若林も俺と同じことを考えていたようだ。この時、三塁ベース上のルーキーは、マウンド上のエースに一つの罠を仕掛けていた。


 右投手の東さんがセットに入ると、その正面にリードをとる若林の姿が見える。若林はジッと東さんの顔を見つめていた。ブツブツと何事か呟いている。


 三塁手の古賀さんが、若林を横目で見やって、怪訝な表情を浮かべた。ネクストバッターズサークルにいる俺の耳には聞こえないが、若林の呟きは古賀さんの耳には届いていたかもしれない。


 東さんは小湊さんに対し力勝負に出た。二球連続で155キロを投げ込んだが、どちらも高目に浮いて、2ボール1ストライクとなった。


 古賀さんが東さんに近寄って、何か耳打ちをした。グラブで口元を隠していたが、「外野を越せない非力なバッターだ。コースを狙わずに打たせろ」とでも言ったのだろう。


 古賀さんが守備位置に戻ろうとすると、東さんが呼びとめた。思い返せば、この時、絶対的エースは若林が呟いた内容を問いただしていたのだ。バッターよりランナーに気をとられていたことがうかがえる。


 若林の呟きは実は、球界一のピッチャーをはめる周到な罠だった。この時点で、東さんは気付かぬうちに、若林の罠にはまっていたのだ。


 その結果、小湊さんへの四球目は、ベース手前でバウンドして、捕手のミットが到底届かない暴投になってしまった。東さんは驚愕の表情で、マウンドを駆け下りて、ホームベースのカバーに入る。


 三塁ランナーの若林は、東さんの目の前で、悠々とホームベースに滑り込んだ。形はどうあれ、絶対的エースからもぎとった一点である。スタンドでは、パイレーツファンの大歓声が渦巻いていた。



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