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瀬戸内海でもっとも大きな島  作者: 坂本光陽
メンタル

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47/56

ノーヒットノーラン


 若林は平然とマウンドを降りてきた。まるでベテラン投手のような落ち着きようである。俺は若林に駆け寄り、ミットで軽くルーキーの尻を叩いた。

「無死満塁のピンチなのに、いつも通りの投球やったな。プレッシャーはなかったんか」

「そんなものを感じていたら勝負になりません。万が一打たれても命まではとられない」


 心憎いまでのポーカーフェイスだった。「これぐらいで喜ぶな」と言いたげである。「東さんに手も足も出ず、ノーヒットに抑えられているのに」そんなルーキーの声が聞こえてきそうだった。


 ダグアウトの奥でスポーツドリンクを飲んで、喉を潤していると、

「岩郷、ナイスリード」と、四番打者から声をかけられた。「それにしても、若林のストレートは打ちにくそうだな」

「わかりますか、越谷さん」


 越谷さんは五年目だが、新人の時から中軸を担っている。パイレーツはコロコロ変わる〈猫の目打線〉だが、四番サードだけは定位置となっている。


「若林は腕の振りが速いというより、極端にテークバックが小さいんだな」越谷さんはそう言って、彼の投球フォームを真似る。「右手をギリギリまでグラブの中に隠しておいて、小さく素早いモーションでビュッと来るイメージだ。球持ちも長くて、腕がなかなか出てこない。あれじゃタイミングを合わせづらい」


「おっしゃる通りです。宮野にしてみたら、とらえたと思ったのに、なぜか差し込まれていたというイメージだったと思います」

「九回表に迎えるクリーンアップに通用すれば本物だな。逃げずに真正面からぶち当たれ。打たれるのも一つの勉強だ」

「はい、わかりました」ただし、ひと言つけ加えた。「でも、簡単には打たせません」


 若林のストレートには、まだユニークな特性があるのだが、さすがの越谷さんにも見抜けなかった。いや、見抜けなくて当然だ。精密機器の手を借りなければ、あのストレートの特殊さは誰にもわからない。


 若林のストレートにはユニークな特性があるのだが、さすがの越谷さんも見抜けなかった。いや、見抜けなくて当然である。ビデオカメラや精密機械の手を借りなければ、あのストレートの特殊さはわからない。


 東さんは7回までに75球しか投げていない。テンポのよい省エネ投球である。8回裏、も相変わらず絶好調だった。五番打者はライトフライ、六番打者はサードゴロに、あっさり打ち取られてしまった。


 ノーヒットノーラン達成まで、あと四人である。七番の打順には、若林が入っていた。既に投手を使い果たしているため、代打を送るわけにはいかない。若林のバッティングは投手にしては悪くないが、絶対的エースからヒットを打てというのは、無茶な要求だ。


 6点差がついたため、東さんは余裕をもっていたはずだ。怪訝な表情を浮かべたのは、若林が左打席に入ったからに他ならない。ルーキーは右投げ左打ちなのだ。打席での構えも、ピタリと決まっている。


 東さんはプレートを踏み、大きく振りかぶった。「なめられんように、一流投手の球を見せておくか」と思ったのだろう。ダイナミックなフォームで、渾身(こんしん)の第一球を投じた。


 若林は積極果敢に、初球のストレートを狙っていた。バットをトップの位置から、最短距離の軌道で振り抜く。150キロ台のストレートに対し、コンパクトなスイングだ。


 打球音は鈍かった。ボテボテのピッチャーゴロである。東は軽やかにマウンドを三塁側に駆け下りて、力のない打球をグラブにおさめた。余裕をもって一塁方向を振り向いた時、意外な光景を目の当たりにする。


 若林が全力疾走をしている。しかも、スプリンター並みに速い。ルーキーは打席から4秒前後で、一塁ベースを駆け抜ける走力を持っているのだ。


 東さんは素早く投げたのだが、これが一塁手の頭上を越える悪送球になった。若林は躊躇なく一塁を回って、悠々と二塁ベースに滑り込む。パイレーツファンの歓声があがった。情けないことに、この試合初めての歓喜の渦である。





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