禁忌の魔法
城門を抜け、街の中へと足を踏み入れた沙羅は、思わず足を止めた。
活気ある往来、行き交う人々、荷を載せた馬車。だが、真っ先に目に入ったのは建物の軒先に掲げられた数々の看板だった。
――まるで暗号だ。
線のような、曲線のような、見たこともない文字が並んでいる。パン屋なのか、宿なのか、鍛冶屋なのか、何ひとつ判別できない。
愕然とした。ここは日本ではない。英語ですらない。彼女の常識は一切通用しなかった。
そこで沙羅は、馬車の中での青年との会話を思い出す。
「ねえ……どうして、私とあなた達は言葉が通じるの?」
青年はわずかに顔を強張らせた。
瞳が窓の外へと逃げる。まるで答えを探すかのように。
やがて、深い息を吐き、声を潜める。
「……本来は、口にしてはならぬことです。ですが貴女は“当事者”。知らねば、むしろ危うい」
沙羅の心臓が鼓動を速める。
「召喚の瞬間――術式は、貴女の脳に“魔法陣”を刻みました」
「……脳に……?」
「ええ。外から見えはしません。ですが、精神と魔力の最奥に焼き付いているのです」
青年の声は淡々としているが、そこに微かな嫌悪と恐怖が滲んでいた。
「その陣は、聞こえた音を意味へと変換し、直接脳に流し込みます。言葉は“声”ではなく“意識”として相互に響く。――貴女が日本語で話していても、相手には自分の言語のように意識に伝わっているのです」
沙羅の背に冷たいものが走る。
「……そんなことをしていいの? 人の頭に勝手に……」
青年は首を横に振る。
「いいえ。本来なら絶対の禁忌です。人の精神に陣を刻むなど、“魂の改竄”と同義。世界の魔術師たちは皆、それを狂気と呼び、禁じてきた。……だが、我が国だけは違う」
沈黙が落ちる。馬車の車輪の音だけが響く。
やがて青年は低く、言葉を継いだ。
「この国は……他国から“狂気の魔法律国”と呼ばれています。理由は貴女が体感しているとおりだ。
国家の頂点と、ごく限られた魔術師たちしか知らぬ秘儀――人の精神に直接、魔を刻み込む術。それを実用化し、召喚術に組み込む。異世界から聖女を召還する。……どれもがこの世界では許されていません」
沙羅は息を詰めた。
「……つまり、私の頭は……禁忌で書き換えられたってこと?」
「そうです」
青年は表情を消したまま、ただ真っ直ぐ沙羅を見た。
「どうか忘れないでください。――ここでは“言葉が通じる”ことそのものが、既に危うさを孕んでいるのです」
沙羅は現実に戻る。
町の中心には、広い広場を囲むように露店が立ち並んでいた。
果物、布、干し肉、陶器――声を張り上げる商人と、人波。
馬車が頻繁に出入りし、宿場町の活気を感じさせた。
沙羅は人混みに紛れながら、フードを深く被り、周囲を観察する。
「……何が売れていて、何が余っているのか」
それを見極められれば、商人の身分証を生かす道が見えるはずだった。
しかし、目に映る品はどれも彼女には判断がつかなかった。
果物は値段の高い安いがあるようだが、鮮度や味の違いがわからない。
布や陶器も、見た目は似ているのに、人々の買い方には明確な基準があるようだった。
「……私の知識じゃ、何が“価値ある物”なのか、全然わからない」
焦りが胸を締めつける。
そんな時、通りの一角から小さな叫び声が聞こえた。
目を向けると、一人の少年が複数の年上の少年たちに囲まれ、押し倒されている。
拳が飛び、蹴りが入る。通りすがりの人々はちらりと視線を向けるが、誰も止めない。
ただ通り過ぎる。
「やめて……」思わず沙羅の口から声が漏れそうになった。
だが、足は動かない。
ここは自分の世界ではない。言葉も、力も、何一つ持たない。
もし割って入れば、次に殴られるのは自分かもしれない。
拳を握りしめたまま、沙羅はただ見ているしかなかった。
胸の奥に、重たい罪悪感と、どうしようもない無力感が沈んでいく。
やがて少年たちは立ち去り、残された小さな影は、埃を払って立ち上がり、どこかへ消えていった。
沙羅は視線を落とし、唇を噛む。
「……助けられなかった」




