私の名前は沙羅
硬い石畳を靴で踏みしめながら、私は深く息を吸い込んだ。
乾いた風と、何かを焼く匂いが鼻をくすぐる。
知らない国の空気。
けれど、不思議と胸の奥は静かだった。
私の名前は沙羅。16歳。家族は私が幼い時に火事で亡くなった。父も母も同居の祖父母も。残された私はあてもなく、母方の曾祖母に拾われた。
その人は優しく、強い人だった。
けれど、私が小学校二年生になる頃には、足腰は弱り、手も震えるようになった。
私は宿題よりも買い物袋を抱えることを優先し、遊びよりも介護を選んだ。
「沙羅ちゃん、ごめんね」
何度も謝る曾祖母に、私はただ笑って言った。
「大丈夫。私がやるから」
でも本当は、胸の奥で何度も泣いていた。
同じ年頃の子たちが当たり前に持っている「自由」が、私にはなかったから。
15歳の春、曾祖母は静かに旅立った。
残ったのは小さな土地と古びた家、そして多くはないが預金。
私は施設に入ることを拒み、その家で生きることを決めた。
「一人で、大丈夫」
そう思い込まなければ、生きていけなかったから。
召喚の日。
私は曾祖母の墓へ向かっていた。
月命日には必ず手を合わせ、報告をしていたから。
けれど、その途中で――突然、重力が消え、気づけば異世界に放り込まれていた。
最初はただ呆然とした。
だけど今、町の空気を吸い込み、国境を抜けたこの瞬間に思う。
(もう、帰れないんだ)
未練はない、と言えば嘘になる。
お墓参りに行けなかった悔しさはある。
けれど曾祖母なら、きっと私にこう言うだろう。
――沙羅、あんたは生きなさい。後ろを見なくていいから。
だから私は振り返らない。
「まず、この世界のことを知らなければ」
通貨の価値、町の仕組み、法律、そして人々の暮らし。知らないままでは、すぐに詐欺や搾取に遭うだろう。
青年から渡された「読み書きの本」と「魔道ペン」。それが、ここでの第一歩になるはずだった。
(毎日少しずつでも学ばなきゃ。言葉を理解できても、字が読めなければ生きていけない)
「お金は無限じゃない……」
腹巻きに縫い込まれた一年分の路銀。大切な命綱だ。
だが一年が過ぎれば、何も残らない。
生きるには稼ぐ方法が要る。
けれど――力も技術もない自分に、冒険者のような真似は到底できない。
ならば商人の身分証をどう活かすかが鍵になる。
「寝る場所も考えないと」
宿に泊まるのが基本だろうが、長期滞在となれば出費はかさむ。
商人の名目で下宿を借りるか、場合によっては小さな家を買うという選択肢も視野に入れる必要がある。しかし、この年齢でそれは可能なのか?
「商人なら……町を歩いていても怪しまれない」
物を仕入れて売ることが許される。自由な移動も可能だ。
(仕入れた物を転売できれば利益になる……問題は、何を売り買いすれば良いのか)
それを見極めるには、市場を観察しなければならない。
誰が何を欲しがり、何が余っているのか。
それがわかれば、商人としての道も開ける。
沙羅は門を振り返り、深く息をついた。
「……まずは宿を探す。そして、この町の市場を歩こう」
小さく自分に言い聞かせると、沙羅は足を踏み出した。
――ここから、自分だけの異世界生活を築くために。




