沙羅の決断
翌朝。
沙羅は目を真っ赤に腫らし、重たい足取りでエルンストの家を訪れた。
扉を開けたエルンストは、一目見て眠れなかったと分かった。
「……考えすぎたな」
彼は苦笑し、沙羅を椅子に座らせる。
「少し確認したいことがある。いいか?」
沙羅は黙って頷く。
エルンストは本棚から厚い本を取り出し、ぱらぱらとページをめくった。
そして、片手に本を持ちながら、聞き慣れない音の連なりを発する。
硬い響きの言葉、舌を転がすような滑らかな言葉――幾つもの異国の言葉を次々と口にした。
だが、沙羅の耳にはそれらはすべて、日本語として届く。
「砂漠に住む部族の言葉だ」「山岳民の古い方言だ」――意味まで自然に理解できてしまう。
「……全部、日本語に聞こえる……」
沙羅は呟き、唇を押さえた。
エルンストは真剣な眼差しで頷く。
「やはり……本当に、意識そのものが翻訳されているんだな」
彼は机に肘をつき、考え込むように視線を落とした。
「沙羅が言葉を理解できるのは、単なる魔道具や術式じゃない。脳に刻まれた魔法陣が、言語を“認識”ごと変換している……」
言葉に重みが宿る。
「脳にある、魔法陣……」
静かな部屋の中。
外の風が窓を揺らす音だけが聞こえていた。
沙羅は、震える声で口を開いた。
「……、私は……今のままでは駄目なの?」
彼は即座に否定しなかった。しばらく黙り込み、言葉を選ぶようにして答えた。
「駄目ではない。ただ……頭の中の魔法陣は異常だ。存在しているだけで、脳を蝕み続ける可能性がある。放っておけば、いずれ……」
沙羅は拳を膝の上で握りしめた。
「……私が、死んだら……悲しむ?」
エルンストは一瞬目を閉じ、そしてはっきりと答えた。
「もちろんだ」
「私が……私でなくなっても……ここに来て良い?」
「来て欲しいよ。どんな形でも」
「私が……能力をなくしても?」
問いかけは涙で震えていた。
エルンストは深く頷いた。
「沙羅、君には君の人生を選ぶ権利がある。誰かのためではなく、自分のために生きていいんだ」
沙羅はしばらく唇を噛み、そして涙を拭った。
「……魔法陣解除の術を……して欲しい」
その一言に、部屋の空気が変わった。
エルンストは彼女を見つめ、強く拳を握りしめる。
「……分かった。だが、これは極めて難しい術だ。準備がいる。必ず成功するとは限らない……それでもいいのか」
沙羅は頷いた。
「それでも、いい」
沙羅は、しばらく俯いたまま沈黙していた。
しかし、ぽつり、ぽつりと、言葉がこぼれ出す。
「……私は、短い命は、怖いよ」
声は小さく、震えていた。
「でも……残された人が、苦しむのは、もっと辛い」
エルンストが息を呑むのを感じたが、沙羅は続けた。
「私は、ずっと……残された人だった。父も、母も……祖父も祖母も、みんな先に死んじゃった。最後に残った曾祖母まで……。どうして、どうして私だけ残るの、って……ずっと思ってた」
涙が頬を伝う。けれど彼女の瞳は、過去を振り返りながらも真っすぐだった。
「私は……誰も助けられなかった。だから……このまま何もしないで、早く死んでも、……何もしないで、長生きしても……きっと後悔すると思う」
唇を噛みしめ、両手をぎゅっと握りしめる。
「……人は、一人きりじゃ駄目なんだよ。生きているだけじゃ……きっと、何かが違うんだよ」
「私は、一緒に生きていてほしかった……。だから、迷惑でも、生きる可能性のある方を、選びたい……」
静かな部屋に、彼女の言葉だけが落ちていった。
エルンストは、しばらく返す言葉を見つけられなかった。




