沙羅、襲われる
エルンストの兄が町を去って数日。
その午後、沙羅は新しく借りた絵本を胸に抱きしめ、心を浮き立たせながら宿への道を急いでいた。
表紙には勇者と魔王の絵が描かれている。リュカにも見せてあげたい――そう思うだけで、歩調は自然と速くなる。
だが、角を曲がった瞬間。
「お嬢ちゃん」
前方に、薄汚れた外套を羽織った男が立ちはだかっていた。
酒の臭いが鼻を突く。
「……!」
足がすくみ、沙羅は絵本を胸にぎゅっと抱え込む。
男はにやりと口角を吊り上げた。
「今、エルンスト先生の家から出てきたよな?最近先生、薬を作ってるか知らないか?」
「……」
返事が出てこない。喉が固まって動かない。
「なあ、前に美形の男が来てただろ?なんか話をしてたよな?薬とか……」
一歩近づかれ、沙羅は思わず後退る。
「……知りません」
やっと声を絞り出すと、男の目が細くなった。
「へえ……? 本当に?」
粘つくような視線が、逃げ場を探す沙羅の顔に貼りつく。
次の瞬間、足が勝手に動いていた。
「待て、このガキ!」
声を背中に聞きながら、全速力で走る。
絵本を落とすまいと抱きしめ、必死に地面を蹴った。
だが、曲がった路地の先は袋小路だった。
高い壁に行く手を阻まれ、呼吸が一気に詰まる。
「……あっ」
後ろから靴音が近づく。
ヒュッ――鋭い風を切る音。
カッ、と肩に熱が走った。
「――っ!」
左肩にナイフが突き刺さり、鮮血が服を染める。
「おっと……当たっちまったな。逃げるからだぜ」
男が薄笑いを浮かべ、手にもう一本の刃を弄びながら近づいてくる。
「助けて……だれか……」
声はか細く、震え、壁に背中が押し付けられる。
「おとなしく答えときゃよかったんだよ。さあ――」
男の靴音が重たく響く。
沙羅の胸がぎゅっと締め付けられる。
怖い。怖い。怖い。
こないで……!
強く思った瞬間、目の前の景色が歪んだように見えた。
男に浮かぶ数字――その存在を意識するより早く、目盛りが急速に削られていく。
「な、んだ……これ……?」
男は膝をついた。
数字は容赦なく減り続ける。
「や、め……やめろ……」
呻き声も掠れて消え、男の体が崩れ落ちる。
その瞬間、沙羅は自分のしたことに気づき、血の気が引いた。
「……っ!」
息が荒くなる。怖い。肩はずきずきと痛む。
だが立ち止まってはいけない。
絵本を抱きしめ、痛む肩を我慢して沙羅は夢中で駆け出した。
……エルンストの所へ。
沙羅は、肩を押さえながらエルンストの家へと駆け込んだ。
ちょうど机に向かっていたエルンストが顔を上げ、すぐに立ち上がる。
その目は一瞬で状況を把握し、慌てることなく沙羅を椅子へと座らせた。
「――傷を見せて」
冷静な声。沙羅は震える手で服をずらし、左肩を見せる。
出血はまだ続いていた。
エルンストは手早く治療道具を取り出し、消毒と止血を行いながら問う。
「何があった?」
震える声で、沙羅は言葉を途切れ途切れに吐き出す。
「と、突然……男が……薬を、作ってないかって……聞いてきて……」
「知らないって言ったのに、しつこくて……」
「それで……逃げたら、ナイフを……投げられて……」
肩の痛みよりも、恐怖が胸を締めつける。
「怖いって……思って……男の、魔力値が……どんどん下がって……うずくまって……だから……逃げてきたの……」
言い終えた瞬間、張り詰めていた心が切れ、沙羅は大粒の涙をぼろぼろと零した。
エルンストは包帯を巻き終えると、静かに彼女を抱き締めた。
「――怖かったな」
その声は驚くほど柔らかく、冷徹な学者の姿はそこになかった。
沙羅はしばらく、嗚咽を漏らしながら彼の胸に顔を埋めた。
落ち着いたのを見て、エルンストは彼女を伴い宿へ向かう。
「今は宿の方が安全だ。ここより人の目がある」
宿の前で、彼は真剣な眼差しを向けた。
「最後に、男を見たのはどこだ?」
沙羅は震えながら場所を告げる。
エルンストは頷いた。
「……落ち着いたら、一人で動くのはやめろ。そうだな、ガルディスと一緒に行動しなさい。彼なら信頼できる。」
懐から小袋を取り出し、銅貨を数枚、沙羅の手に握らせる。
「ガルディスに連絡を取る時はリュカを使え。これは、そのための代だ」
沙羅は言葉にならず、ただ小さく頷いた。
宿に戻ると、そのまま倒れるようにして床に伏し、夜から高熱を出した。
彼女は二日間、意識も朦朧としたまま眠り続けた。
その間――。
エルンストは一人、夜の町へと足を運んだ。
沙羅が告げた場所へ行くと、そこにはぐったりとした男が残されていた。
「……やはり、彼女の能力か」
エルンストは表情を変えず、男を回収した。
そして自宅へ戻り、地下の部屋に拘束する。
静かな石壁の下、蝋燭の光に照らされたその姿は、実験台のように冷たく映っていた。




