沙羅の日常
沙羅が町に来てから、3ヶ月が過ぎた。
朝、宿の大広間に降りていくと、すでにパンの香りが漂っていた。
リュカの母親が大きな鍋でスープを温めていて、リュカはパンを籠に詰めていた。
「沙羅、おはよう!」
「おはようございます」
まだ声を出すときに緊張するけれど、リュカの笑顔に助けられて少し肩の力が抜ける。
黒いパンをかじると、まだ馴染めない酸味が口に広がった。でもスープを一口含めば、不思議と優しい味になった。塩気は薄いが、身体に染み込むようで、朝が始まったのだと実感する。
食事のあとは、リュカと一緒に借りている部屋の掃除や洗濯をする。家賃は払っているが、沙羅は自分の事は自分でしたかったのだ。
川のほとりで洗濯板に布を打ち付ける作業は骨が折れるけれど、やっているうちに指先の力加減も覚えてきた。川面に揺れる自分の姿を見て、時々「ああ、本当に異世界に来たんだ」と胸がざわつく。
昼前になると、沙羅は買い物籠を抱えて町へ出る。
市場には野菜や果物を並べた屋台が軒を連ね、威勢のいい声が飛び交う。
「ほら嬢ちゃん、今朝採れたリンゴだ、安くしとくぞ!」
「昨日は三つで銅貨二枚だったのに……」
値切り交渉まではできないが、毎日通ううちに相場が見えてきた。知らないうちに、町の人々から顔を覚えられているのもわかる。
食材を抱えて向かうのはエルンストの家だ。
整った顔立ちの学者は、机に広げた本に夢中で食事を忘れることが多い。
「今朝も食べてないんですか?」
「気づいたら時間が過ぎていた……」
呆れる沙羅をよそに、エルンストは本に目を落とす。
……エルンストの不摂生に気がついた沙羅は、二週間前に勇気を出して提案した。
「毎日、私が昼を作ります。これなら食事、忘れませんから」
最初は驚いたように目を見張ったが、今では彼も当たり前のように待っている。
台所で野菜を刻む音が響き、鍋から香りが立ち上がると、研究室の空気が少し柔らかくなるのを沙羅は感じた。
食事のあとには研究の時間。沙羅がエルンストの魔力の数値を上げると、彼はそれを使って薬を作り出す。かなり売れているらしい。その収入で、時折沙羅に銀貨を渡してくれる。
「これは君の労働の対価だよ。遠慮せずに受け取っておきなさい」
「ありがとうございます……」
今回は銀貨十枚。重みを両手に感じる。正しい額なのかは分からない。ただ、有り難く受け取る。
午後は勉強の時間。
魔道ペンでの練習は終わり、今はエルンストが選んだ絵本を読んでいる。ぎこちなく言葉を追い、つっかえながらも読み進めると、エルンストが小さく頷いた。
「成長が早い。努力の賜物だな」
「……、もっと上手になりたいです」
魔道ペンと練習帳はリュカに貸した。渡したときのリュカの喜びようは忘れられない。
夕方には宿に戻り、今度はリュカの母親の手伝いをする。
台所で野菜を切りながら、味付けや煮込み方を習う。日本と色々違う……。だが、少しずつ形になる料理に、達成感を覚えるようになった。
夕食を皆で囲んだあと、沙羅はリュカに文字を教える。昼間に自分が絵本で学んだことを、そのまま伝えるような形だったが、リュカは真剣に耳を傾けてくれる。
夜になると、自室に戻り、布の寝床に体を沈める。
――今日も一日、生き延びられた。そう思うと同時に、確実にこの町の生活が「自分の居場所」になりつつあるのを感じた。
けれど胸の奥では、自分の能力について悩み続けていた。
人を助ける力なのか、脅かす力なのか。
……私はどうしたいのか。答えが出ないまま、まぶたがゆっくりと閉じていった。




