エルンストの病気
魔獣が元気に動き回る檻の前で、エルンストは深く息を吐いた。
興奮を抑えきれない様子で何度も帳面に文字を書き込む。
やがて、彼は沙羅の方に振り返った。
その表情は先ほどまでの興奮ではなく、恐ろしいほど冷静で鋭い。
「沙羅――今のことは、絶対に誰にも言うな」
沙羅は肩を震わせた。
「……え?」
「数字を“見える”だけでも異常だ。だが、それに干渉できるとなれば……間違いなく狂気の魔法律国と同じ禁忌に触れる。君が“黒い魔女”の再来だと噂されれば、どうなるか……想像もつかん」
エルンストは机の上に手をつき、低い声で続けた。
「人は恐怖に駆られれば、理性を失う。君は研究の対象どころか、処刑台に送られる」
沙羅の顔から血の気が引いていった。
(やっぱり……私の力は危険なんだ……)
エルンストは目を閉じ、一拍置いてから言葉を和らげる。
「……安心しろ。私は君を利用する気はない。ただ、学者として事実を知りたいだけだ。けれど、この力を他人に知られたら、君は守られない。だから秘密にするんだ。分かるね?」
沙羅は震える唇で、かすかに「はい」と答えた。
エルンストはそれを確認すると、再び帳面に向き直りながら、あえて距離を置くように言った。
「ここで見たことは、ここに置いていけ。いいな」
沙羅は胸の奥に重い石を抱えたまま、ただうなずくしかなかった――。
エルンストの家からの帰り道、沙羅はずっと俯いて歩いていた。
(……秘密にしなきゃいけない。絶対に……)
彼の真剣な眼差しと低い声が、まだ耳の奥に残っている。
宿に戻ると、リュカが明るい声で迎えてくれた。
「おかえり、沙羅! エルンストさんとどうだった?」
沙羅は一瞬、答えを詰まらせる。
(……言えない。リュカには話したいのに……)
「……うん、まあ、色々……教えてくれたよ」
言葉を濁しながら微笑んでみせた。
リュカは首をかしげつつも、それ以上追及はせず、台所へ向かう。
「今日は少し良い肉が手に入ったんだ。父さんも久々に上機嫌でさ」
リュカが楽しげに話す姿を見て、沙羅の胸はきりきりと痛んだ。
(もし私の力のことを知られたら……リュカも、皆も、怖がるかな……。それとも……)
頭の中でぐるぐると考えが渦巻く。
けれど、エルンストの「処刑台に送られる」という言葉が何度も思い出され、唇を噛んだ。
結局、沙羅は何も言えずに夕食を口に運んだ。
食事の温かさが余計に胸を締め付け、秘密を抱えていることが苦しくなる。
リュカが笑って話す横顔を見つめながら――
(本当は……全部打ち明けたいのに……)
沙羅は心の中でそう呟いた。
翌日、エルンストは顎に手を当て、深く考え込んでいた。
「……沙羅」
その声に、沙羅は小さく身をすくめた。
「君は“魔力再生不良症”という病を知っているか?」
沙羅は首を横に振る。
「……知らないです」
エルンストは椅子に深く腰掛け直し、ゆっくりと説明した。
「魔力は、本来なら休息や睡眠で自然に回復する。だが……まれに、回復がほとんど行われなくなる病がある。私もその一人だ」
そう言って、自分の胸元を軽く叩いた。
「魔力が低くても人は死ぬわけではない。だが、魔法を生業にしてきた者にとっては……致命的だ。魔獣に出会っても戦えない。研究者は研究も進められない。誇りも、すべて失うことになる。また、症状が急激に悪化した時は病人は助かる手段が殆どない」
沙羅は黙って耳を傾けるしかなかった。
エルンストはしばし沈黙したあと、鋭い瞳を彼女に向ける。
「――君の力が、人に対しても有効かどうか……それを確かめたい」
その言葉が耳に入った瞬間、沙羅の心臓は大きく跳ねた。
「ひ、人に……?」と反射的に繰り返す。
エルンストは静かに頷いた。
「そうだ。もしできるなら、“魔力再生不良症”で苦しむ者を救えるかもしれない。人の未来を変える力になる」
沙羅の胸に、ざわりと冷たい感覚が広がる。
(私の力で……人に何か起きたら? 死んでしまったら?)
次の瞬間、沙羅はぶんぶんと首を横に振った。
「だ、だめです!」
声が震えていた。
「人に使うなんて、絶対に……怖いです。もし……もし何か起きたら、取り返しがつかない……」
机の上の本に両手をぎゅっと押し当て、俯いたまま言葉を絞り出す。
エルンストはしばらく沙羅を見つめ、ため息をついた。
「……そうだな。君がそう思うのも当然だ」
椅子に深く座り直し、指先で机をとんとんと叩く。
「焦りすぎた。私の悪い癖だ……。心配するな、いきなり強制したりはしない」
彼の瞳には、まだ抑えきれない知識欲の火がちらちらと灯っていた。
だが、それ以上に、沙羅の怯えた顔を前にして強くは出られない。
エルンストは柔らかく微笑もうとしたが、どこか不器用だった。
「……君の力は、それほど価値があるんだ。だが無理を強いるつもりはない。忘れてくれ」
沙羅は小さく「はい」と答える。
だが胸の中では、不安の棘が消えずに残っていた。




