第64話
「あたくし、死にましたの」
口に運んでいたミカンの房が、ポロリと一斉に落ちた。
「ちょっとアンタ、言い方! それじゃ誤解しかないでしょ!」
「あら、ごめん遊ばせ。正確には次の皇帝が生まれましたの」
ヨヒラを連れて屋敷に戻り、無事を確かめ合ったその夜。
足の低い大きなテーブルを囲み、団欒しながら今後の行動を話していたところで、メイイェンが口を開いたのだ。
彼女はそもそも、皇帝の座を降りるために動いていたらしく、エルシィからの手紙は渡りに船だったという。
赤子ではあるが新たに皇帝となる人間も生まれ、メイイェンはこれ幸いと国を出発してきたのだ。
エルシィは緑茶を注ぎつつ、目を白黒させながらメイイェンを伺い見る。
「ええと、……わたし達と一緒に、来てくれるって事、なんですか?」
「そりゃ心強いな」
セオドアも笑みを浮かべて、エルシィが淹れた茶のカップをメイイェンに渡すと、彼女は鼻高々に胸を張った。
「おーほっほ! 泣いて喜びなさい、愚民? このあたくしが直々に出向いて差し上げましたのよ、もっと感謝なさい?」
「っ本当に? 嬉しい、心配していたんですよ。もうあそこで苦しい思いをしなくて済むんですよね? よかった……!」
エルシィが思わず身を乗り出し、メイイェンの両手を取れば、高飛車聖女は真っ赤な顔をして口を開閉させる。
そして膝で畳を擦って移動し、夫妻の間に挟まれたヨヒラを抱き上げて己の膝に座らせ、エルシィの腕にしがみついた。
「そうですのよ、ママ! あたくし、やっと相応しい女になって、お役に立てますのよ」
「変わり身が早ぇ。子猫さんかn噛まれたッ」
感心して頭を撫でたセオドアの指に、くっきりと歯形がついてから。
メイイェンはヨヒラを揺すりつつ、幼女の頬に頬擦りしながらエルシィを見上げる。
「つまりあたくし、今、フリーなんですの」
「え、これって口説かれてるの?」
「ママ、わたしもよ!」
「ルヴィナさま?」
「うり?」
「僕も彼女いないよ」
「俺も」
「待て待て待て、男二人はダメだ!! メイイェンお嬢さん、つまり? 話をそこから進めてくれないか!?」
一斉に主張し始めた聖女達に、真っ青な顔で大人気なくセオドアが割って入り、メイイェンを促した。
彼女は声高らかに笑って、つまり、と一呼吸置いてから、姿勢を正す。
「あたくしを、養女にしてくださいませ」
「…………え?」
新しい皇帝が生まれたということは、前皇帝は死亡したことと同義である。
メイイェンは現状、生存している証拠が書き換えられてしまっているため、幽霊同然の扱いなのだった。
今後はエルシィの養女として生きていきたいと、彼女はそう言っているのである。
エルシィは呆気に取られた顔のまま、無意識にセオドアを見た。
彼も同様に目を瞬かせていたが、指先で頬を掻いて、メイイェンと視線を合わせる。
「つまり、それは俺の娘ということでもあるが、その辺は?」
「あら、娘にパパと結婚するって、喜ばれたくありませんの?」
「なんかすげぇ甘美な響きの単語が聞こえたんだが? 幻聴? 思春期で娘に鬱陶しがられる予定の全世界共通パパの夢?」
「たとえが断定的かつ、飛躍しすぎです、旦那さま」
明後日の方向に思考が吹っ飛んでいったセオドアを戻しつつ、エルシィは眉を下げた。
どうしたものかと迷う彼女に、セオドアは机に頬杖をついて、目尻を緩ませる。
「いいんじゃないか、奥さま。この際、ここにいる全員で家族になろうぜ」
「それは、でも、可能なんでしょうか?」
「俺たちが婚姻を結んだのは、無国籍自治区だ。あそこはそういう手続きに長けている」
どうやらセオドアに異論はないようだ。むしろ、この状況を楽観的に捉えているようである。
エルシィからしてみれば、最近巻き込まれている怒涛の展開を、更に超える衝撃の発言であった。だが聖女達は皆、その手があったかと喜んでいる。
その様子を見ていると、まぁ良いかと心が軽くなり、余計な心配は考えないことにした。
もはや、乗り掛かったどころではない船の上。最後まで乗船するのが筋というものだろう。
エルシィは、聖女達との会話に花を咲かせているセオドアを、そっと盗み見る。
自分と同じオッドアイは、確かな親愛を滲ませていた。
明日には出立しようと話をつけ、エルシィは温泉を堪能した後、寝室に向けて足を運んでいた。
縁側を歩くと夜風が頬を撫で、久方ぶりに見た満月が、煌々と屋敷を照らしている。
立ち止まって眺めていたエルシィは、ふと、足音を耳にして視線を向けた。
月の光に照らされながら姿を見せたのは、牡丹紅色の濡れた長髪を頭上で纏め、部屋着に袖を通したメイイェンだった。
彼女は両手を後ろで組み、エルシィにそっと近寄ると、上体を屈めて顔を覗き込んでくる。
「ママ、今日は、……突然、驚かせましたわね」
「え? いいえ、そんなことはないですよ。……元気な顔が見られて、嬉しいです」
エルシィが床に膝をつけば、メイイェンは視線を迷わせ、細い両手を己の胸の前で重ね合わせた。
何事か伝えようと口を開閉させ、しかし言葉が出ないのか、すぐに唇を引き結んでしまう。
珍しい様子に目を瞬かせると、彼女は意を決した様子で顎を上げた。
「……あたくし、少し前に……十歳になりましたの」
「それは……!」
「その日に、新しい皇帝は生まれましたわ。あたくしと同じ、赤い髪をもつ赤ん坊でしてよ」
だから琴・美炎は死んだのだ、と。
彼女がそう表現した意味を理解し、エルシィは微かに眉を寄せた。
暫く無言で見つめあっていれば、メイイェンの瞳が揺れて、唇が震え強く噛み締める。
滲んだ赤が痛ましく、瞳に浮かんだ涙は輪郭を伝い、エルシィは彼女を抱き寄せて目蓋を閉じた。
「……お誕生日、おめでとうございます、メイイェンさま」
「っ……! そう、そうなんですの、ずっともがいて、ようやく、ここへ」
「うん、……うん」
「あたくし、ずっと、願っていましたの、信じていたかったんですわ。……そう言われたくて、ただ、生きて……!!」
膝から崩れ落ちた体を抱き止め、エルシィは何度も背中を撫でる。
きっと彼女が欲しかった温もりは、こんな中途半端な抱擁ではないのだろう。
生と死を繰り返しながら、辿り着いた果てが真の幸福なら、この場にいることはなかったはずだ。
どれほど悔しい思いで、どれほど苦しい決断で、彼女はここにいるのだろう。
エルシィが与えられる最大限の愛情で、彼女の傷に寄り添えれば良いと、切に願う。
彼女が疲れて眠ってしまっても、エルシィは膝の上に抱き上げて、縁側に座っていた。
全てを包む月光が揺れて、上手く視界に捉えられなくなっても。
夢の中でも涙する彼女が、これ以上、傷ついてしまわぬように。
迎えに来たセオドアに、名前を呼ばれて抱き上げられるまで、──ずっと。




