第63話
エルシィは口を半開きにしたまま、背中を見上げる。
それは間違いなくフェイとメイイェンで、状況に理解が追いつかず混乱を極めていた。
しかしヨヒラが泣き出した声で我に返り、蹲る少女を慌てて抱き上げる。
「ご、ごめんね、怖かったね」
違うのだと首を降る彼女は、エルシィに精一杯腕を回し抱きついた。
「まま、……まま、っヨヒラに、だいすき、いっぱい、ありがとう……!」
「……っ」
込み上げる感情の正体に涙を滲ませ、エルシィは小さな体を抱きしめ返した。
心臓の奥底に暖かな力が湧くようで、何度も背中を撫でて頬を擦り寄せる。
フェイに抱き上げられていたメイイェンが、優美な動作で床に降りると、肩越しに二人を一瞥した。
怪我や調子の悪い様子もなく、安堵の息をつき、険しい表情で周囲を見渡す。
突然現れた他国の皇帝に、腰を抜かして唖然としていた兵たちが、ようやく膝をついて頭を垂れ始めた。
アマノテル国は人口が少なく、魔法使いはヨヒラ以外存在しない。
そのヨヒラの魔法を打ち消すほどの脅威が、悠然と目の前に立っている事実に、各々は震え上がっていた。
エルシィがオルジオに掴まりながら立ち上がると、メイイェンが体ごと振り返る。
彼女はヨヒラに近寄ると、両手で涙を拭ってやりながら、額にキスを贈った。
「頑是ない子ですこと」
「こ、皇帝陛下、どうやってここへ……?」
「うふふ、あたくしを誰だと思いまして? これしきの雨、造作もございませんのよ? まぁでも、あたくしの手を煩わせたんですもの、特別に感謝されてあげてもよくって、ひゃっ」
胸に片手を当てて得意げなメイイェンを、エルシィは片腕に思わず抱きしめる。
元々細い体は更に細くなったようで、肩口に顔を押し付けながら長い息を吐き出した。
「……無事でよかった……」
心からの言葉に、メイイェンが瞠目した後、炎が床から舞い上がる。
温度調節を忘れた魔法は燃え広がらず、人体に影響はないが熱いままで、アマノテル国の人間たちは悲鳴を上げて逃げ出した。
御簾の向こう側にいる皇族たちは、自分たちを助けないまま逃げる兵に叫びながらも、腰を抜かした様子で影が停滞している。
喜びが最上級まで飛びかけたメイイェンに、フェイが呆れた様子でエルシィに声をかけた。
「御母堂さま、それくらいで勘弁して上げて。アタシの聖女ちゃん、嬉しすぎて全世界焼き尽くしちゃうから」
「えっ、あっ、ごめんなさい!」
「失礼しちゃいますわ、フェイ!! 星ひとつ消滅するくらいで、あたくしの喜びが体現できると思いまして!?」
「なお悪いでしょこのおバカ!」
エルシィは仲良く騒ぎあっている二人へ呆気に取られつつ、ヨヒラを抱えなす。
するとシテラの背後から、足音だけが聞こえて、大きく御簾を捲り上げた。
いきなり蠢いたそれに、今上帝ら家族が絶叫する。
その顔は恐怖も驚愕も混ぜ込んだもので、彼らは我先にと逃げ出そうともがき、しかし足がもつれて転んでは、互いに罵り合っていた。
床に小さな月面を模した魔法陣が現れ、認識齟齬の魔法で姿を消していたルヴィナが、美しい金糸を揺らす。
彼女は腰に両手を当てて胸を張ると、ふん、と鼻息荒くヨヒラへ振り返った。
「ね? 見たでしょ、ヨヒラ。あなたが怖がることはもう、なんにもないのよ」
ルヴィナはチェンノッタを説得し、セオドアに魔術を施してもらっていたのだ。
エルシィとヨヒラ、幻想生物だけを本屋敷に向かわせる事が心配だったのと、ヨヒラを脅かす正体をこの目で確認したい。
彼女の願いにチェンノッタが、セオドアと二人で魔術式を書くことで折り合いをつけ、彼女を送り出してくれたのだ。
相変わらず互いを蹴落とし合おうとする彼らに、ルヴィナは視線を外してエルシィの所へ戻ってくる。
そうしてヨヒラを預かると、再び戻って彼女を虐げた人々を見下ろした。
悲鳴をこぼしながらヨヒラを見上げる彼らに、幼子を疎んで蔑み、笑いものにした面影は皆無だ。
彼女が願った明確な愛情は、求め続けた輝かしい日々は、この場所になかった。
ただそれだけの事だったのだと、ヨヒラは不思議に思い目を瞬かせる。
ルヴィナは優しくヨヒラに笑いかけ、片手の指先で心臓の上を軽くつついた。
「もう大丈夫よ、ヨヒラ。あなたには、わたしたちには、怖いことに立ち向かっても、逃げ出しても、遠回りしても。なんだって、できちゃうの。……なんだって出来ると、力をくれる人がいるのよ」
ヨヒラの青灰の瞳がエルシィを見る。
涙の止まった双眸は緩やかに瞬いて、ルヴィナに寄り掛かりながら、彼女は小さな人差し指で天井を指差した。
「…………“ひとつ、ふたとせ、みよのいつつき”」
緩やかに空気は冷えて、抱えられたヨヒラの足元に、魔法陣が曲線を描く。それは流れる水流と、静謐な紫陽花を組み合わせた模様で、東雲の空に似た柔らかな光を宿していた。
「“りっか、ななつの、やおろずねがい”」
天井に集まるのは水蒸気だ。部屋に出現した小さな雨雲は、雷鳴を引き連れ渦巻き、育て親の頭上に広がっていく。
ヨヒラは大きく息を吸い込んで、人差し指を振り下ろした。
「“ここのえ、とおとき” ──っ“降り注げ”!!」
桶をひっくり返したような水量で、育て親たちに雨が叩きつけられる。
それは三秒ほどで即座に止み、呆然とした彼らだけを濡れ鼠に変えていた。
「ヨヒラ、ちゃんとがんばったの。ほめてくれる、ままのとこいく。だいっきらい。あっかんべ!!」
舌を突き出し宣言した彼女に、ルヴィナが軽い歩調でエルシィのところまで下がってくる。
メイイェンが片手を差し出し、聖女たちが互いの手を取り合えば、足元に月光の聖女が操る魔法陣が出現した。
「まま、だーいすき」
「あらあら、あたくしの方が大好きですわよ」
「ふふ、お揃いですね」
愉快げに顔を寄せ合って笑う彼女らと、微笑ましげに見つめる幻想生物たちに挟まれて、エルシィは目を細める。
暖かな光に意識は和らいで、両腕に三人を引き寄せ目蓋を閉じた。
「うん、……ママも、みんなが大好きよ」
意識は遠く光となって、帰り道を照らしていく。
細く目蓋を開けて視界を辿れば、フェイがシテラを強く抱きしめているのが見え、微笑んだ。
なんと幸福な日なのだと、オルジオは呟いて涙する。
それは枯れ木に花を咲かせるような、優しい波紋を広げていった。




