第108話
トゥーラが交渉した通り、シグリード領は知識交流の名目で、領地滞在書の交付を許可された。
普段は発行されるまで早くても三日かかるところ、半日で許可が降りたのだから爆速である。
アリスは相変わらず何が何やら分からないまま、五年ぶりにハープシコードの城へ足を踏み入れることになった。
アリスはシアドの両親と祖父に大歓迎され、至れり尽くせりのもてなしを受け、更に混乱に陥ることとなる。
下心があるのか、純粋な厚意なのか、全く分からない。しかし視察団に対し、ハープシコードは惜しみない金額の土産物を用意していたので、少なくとも対立目的はなさそうであった。
アリスは目まぐるしい初日の夜を迎え、来賓客用のベッドに大の字に寝そべる。
これまで各地方の視察は訪れたが、皆が通り一辺倒の挨拶を述べ、遠巻きにされる事の方が多かった。
大半が武力制圧であるため、それも詮無い事であるが、ハープシコードのように細部に渡るまで歓迎されることは少ない。
食事も美味しく、浴場も広く、用意された部屋も上等である故に、視察団はすっかりメロメロであった。エリザヴェータなど、久しぶりに堪能したまともな湯殿に、涙がちょちょ切れていたくらいである。
全く意味が分からなかった。
いや、下心を隠そうとしているのかもしれないが、それにしてもあまりに大奮発が過ぎる。
「……ワタシはもしかして、酷い思い違いをしていたのでしょうか」
「そーかもな」
「もしかして、実は凄く大事にされちゃっていたりするんでしょうか」
「それはそーだろーな」
「これは由々しき事態ですね」
アリスは二重の意味でそう言って、己に覆い被さるシアドを見上げた。
彼は感情を隠した双眸でアリスを見下ろし、片手で彼女の長髪を一房すくい上げて口付ける。
全く物音がしなかったが、どうやって入室したのだろう。外にはトゥーラが控えているはずである。
微かに、彼の身体から迸る力の片鱗が見えた。常人では考えつかない方法で部屋を渡ってきたのだろうと、なんとなくだが察する。
だがそれも、彼がアリスのベッドに乗り上げている行動と結び付かず、彼女は冷静を装いながら酷く掻き乱されていた。
視線を僅かに巡らせれば、廊下へ続く扉に、記号や数字などの文字が大きく書き記してあって、アリスは目を細める。
「…………どうしたんですか、シアド。ここは貴方の部屋ではありません」
「どうしたんだろうな、俺は。ここがアリスに用意した客間だって、知ってるんだけどな」
「明日から視察に同行して下さるのでしょう? 早寝早起きですよ」
「そーだぜ。……たった二ヶ月しかない」
小柄なアリスの体に、彼の片手が這っていく。
意味が分からない。
彼が何をしようとしているのか、流石に五年も経てば、多少なりとも子供を脱却したアリスにも、理解が追いついている。
だがそれを踏まえても、アリスには彼の真理が全く分からなかった。
押し除ければ済むのに、筋張った指先が寝巻きの上から輪郭をなぞるだけで、アリスは言葉の端から端まで奪われていく錯覚がした。
トゥーラを呼ぼうと口を開くのに、何故か掠れたような声しか出ない。
シアドは何も言わず、感情も読ませず、蝶結びになった寝巻きの紐に指をかけた。
「……っシアド……!」
「何も言葉がないのは怖いだろ」
ふと、思いがけない言葉が頭上から降ってきて、アリスは目を見開く。
シアドは長い溜め息を吐き出し、隣に同じく大の字に寝転がった。
「俺は五年、なんの言葉も得られないままだった」
「……何の話ですか」
「お前宛の手紙は届かず、領地に出向いても面会は全て謝絶。まぁ当然っちゃ当然なんだが、俺は五年、なんの言葉も得られてない」
「え?」
初耳だ。
アリスは確かにハープシコード領へは行かなかった。だが、彼ら家族を遠ざけたつもりはない。
半分上体を起こした格好で絶句するアリスに、シアドは横目に見上げて苦笑した。
ハープシコードは今や、規模こそ小さいが、サキソフォンと肩を並べる勢力だ。当然、敵意を持って対応し、王たるアリスの耳に余計な煩わしさが入らぬよう、配慮する輩が現れてくる。
五年前にアリスが逃げ出した後、シアドは何度も書簡を送り、訪問し、一度も会うことが叶わなかった。
彼は寝そべったまま、両手を顔の横に広げて、手の平をアリスに見せる。
それは攻撃手段も、悪意もないことを如実に表していて、アリスは眉間に皺を寄せ小さく首を振った。
「なぁアリス。何が嫌だった? 俺が連れ回した事か? 妹たちが疎ましかった? 俺の両親が気に障ったか?」
「そっ、そんな事、違う、だって、……」
だって、……なら、どうして?
どうして今更、そんな寂しそうな顔で、目の前に現れるのだろう。
「…………どうして一週間もワタシを閉じ込めたんですか」
アリスが一ヶ月の眠りから覚めた時、トゥーラはすでに近郊へいたのだ。
それなのにハープシコード家は、使者へ報告こそしたが、アリスに会わせようとはしなかった。
「……お前に何か危害を加えるんじゃねーかって、心配だった」
「っトゥーラはそんなことしません」
「だろうな。だが、あの時は知らねぇ。一ヶ月、毎晩、どうして誰もいないんだと泣いて、自分の両親に呼びかけるお前を、どうやったって安心して引き渡せなかった」
「………………え?」
アリスが目覚めなかった一ヶ月。彼女はずっとシアドの寝室にいた。
毎晩のように夢にうなされ、泣きながら苦しむ少女に、シアドは手を繋いでやることしか出来なかった。
だからトゥーラが現れた時、彼らはあれほど警戒したのだ。
自分たちが保護した少女の安全を、護ってくれる人物なのかと。
愕然とするアリスは思い出す。
シアドの父が、トゥーラなら大丈夫だと言ったことを。話したいことがあると、真摯に伝えたことを。
シアドがトゥーラに向かって言い放った怒号を、今になって鮮明に思い出すのだ。
──やっぱりお前らアリスになんかしてんだろう!!
「……っ!!」
なんて浅はかで短慮な勘違いをしていたのだろう。なんて傲慢で自己満足的な解釈をしたのだろう。
アリスは真っ青な顔で言葉を失い、両手で己の顔を覆い隠した。
言葉のない五年。ただ自分が傷つく事を恐れた歳月だ。
会いたいのに会いたくない。相反する感情に押しつぶされた日々だった。
シアドがおもむろに起き上がり、アリスの正面に座ると、両手を伸ばす。
その指先を見つめていたアリスは、次の瞬間、思い切り脇腹をくすぐられて素っ頓狂な声を上げた。
「わぁあっ、なん、わはっ、ははっ、やめてくださいっ」
「んなシンキクセー顔してる奴はだめだ! つーか少しは反省してんだろーなコラ、俺様の哀愁漂う五年間を返しやがれっ」
「はははっ、やだ、だめ、っあははっ、ごめ、ん、ごめんなさいシアド、わは、ごめ、んぅ」
笑いが堪えられず掛布の上を転げまわり、降参して謝罪する唇が突然塞がる。
熱は喉を通して肺に落ち、血液に乗って全身を駆け巡った。
アリスは己の、見る角度によって色を変える長髪が、白の海へ広がる感覚に小さく震える。そして鼻先が触れ合うほど至近距離にいるシアドを見上げ、青と金のオッドアイを柔和に細めた。
「……シアド」
「おう」
「……ワタシは、こういうことは、好きな人としかしたくない願望があるんです」
「そうか、超奇遇だな。実は俺様もなんだぜ」
長くしなやかな指先が、再び寝巻きの紐に触れる。
ほつれた紐はそのまま引き上げられて、拒まない心を露わに変えていく。
「明日、きっと、トゥーラとエリザヴェータに叱られちゃいます」
「だろうなぁ、俺もきっと父上にぶっ飛ばされて、母上に引っ叩かれて、ジジィに笑われて、ユーフェとフィンカに貶されるわ」
「えぇ……満身創痍じゃないですか」
「そりゃそーだろ、今から地上最強の戦女神と一戦交えるんだからよ」
嫌な言い方だが思わず笑ってしまい、シアドも口角を上げ喉の奥で悪戯に笑った。
愉快で仕方がないのに、アリスの喉は震えて、目尻から水滴がこぼれ落ちていく。
「……シアド、……っシアド、しあど、ごめんなさい、シアド、ずっと会いたかった、ずっとあいたかったの……!」
言葉にしたいのに、全てを声高に伝えたいのに、二人の秘密にしてしまいたい。そんな願望に唇を寄せ合って、絡んだ両手は縫い止められた。
アリスは気が逸れてしまう前に、己の力を行使して、部屋中に甘い香りが漂うロータスを開花させる。
それは茎を伸ばして、シアドが部屋に施した術の上に重なり、世界から二人の居場所を遮断した。




