第109話
シアドが二ヶ月欲しいと言ったのは、もう一つ理由があった。
アリスは現在、シアドたち兄妹とハッセンカ、そしてトゥーラとエリザヴェータを連れ、氷山に訪れている。
シアドが暮らす城から、移動に一週間以上かかり、野営を数日こなしながら向かう場所であった。
生物の気配を感じない氷山は、常に雪に覆われていて、防寒具を着込んだアリスは興味津々に眺める。
唯一ある関所に書簡を見せ、交渉していたシアドが戻ってくると、一向を乗せた狼車は再び走り出した。
舗装されていない道は時折大きく跳ね、それでも目的地に向かい突き進んでいく。
「シアドさま、ここには何があるのでしょうか」
アリスの力で暖かさを保つ水筒を手に、エリザヴェータがシアドに差し出しながら問いかける。
彼は礼を言って一口飲み、赤らんだ鼻先を軽くすすった。
「あるっつーか、いるっつーか。アリスに見てもらいたくてよ。だが、俺たちだけじゃ入れなくてな」
「何か特別な場所なのでしょうか」
「まぁな。警備が厳重すぎなんだよ。ユーフェとフィンカの三人で侵入したが、危うく終身刑だったぜ」
「まぁ……」
いや、何をしているのだろうか、この兄妹は。
呆れるアリスの視線を受け、シアドはエリザヴェータに水筒を返しつつ、バツの悪そうに口を覆う布を引き上げた。
「あそこには、良い石があんだよ。研究材料に必要で」
「危ないことはダメですよ」
「オメー様がそれを言うか?」
シアドの切り返しに、トゥーラが大きく頷いて同意するのが見える。
アリスは居た堪れず半目で己の腹心を睨み、それとなくシアドに寄りかかって、再び外を見つめた。
ちなみに車内はかなり狭く、御者席にいるハッセンカを除き、全員が体を押し込んで座っている状況である。
シアドの片手が腰に周り、アリスは抱えた膝に頬を乗せて、されるがままになっていた。
不埒な触れ方ではないが、無性に心が落ち着かなくて、しかし何事もないすまし顔で目を細める。
シアドと深い仲になり、アリスの心はずっと浮き足立っていた。
二人で徹底的に証拠隠滅を図ったので、今のところ誰にも、奥深くまで明け渡した事実はバレていない。
それでもシアドが視界に収まれば、アリスは自然と相貌を崩してしまい、己の変化に狼狽える日々であった。
兄妹に囲まれているアリスを眺め、トゥーラが微かに目尻を緩ませる。
少なくとも彼には黙認されているような、そんな気がしてしまい、アリスはあえて視線を逸らし続けていた。
車が到着し、アリスたちは、同じ衣装を纏う集団に出迎えられた。
彼らは体の線が出ない、布を重ねた衣服を着用し、全員が不気味な山羊に似た動物の、頭部の骨を被っている。
空洞の奥は暗闇で表情が分からず、だが通訳するシアドとハッセンカの様子を見る限り、敵意はなさそうであった。
彼らは雪の積もる地面へ、躊躇いなくアリスの前に跪く。
そして何事か言葉にしながら両手を掲げ、緩やかに立ち上がると、一人が案内役として進み出た。
他と比べてやや小柄で、どことなく線の細い印象を受ける。
アリスが頭を下げれば、その人は胸に片手を当てて同じく頭を下げた。
「チェルディーバか?」
シアドが微かに声音を和らげる。
名前らしき言葉で呼ばれたその人は、シアドには応えずアリスを促した。
「……相変わらず嫌われてるねぇ、シアド」
「うるせーよハッセンカ。くそ、あのアマ覚えとけよ」
どうやら性別は女らしい。
アリスが思わずシアドを見上げると、彼は隣を歩きながら声を顰めた。
「別に何もねーからな」
「シアドはボインな大人のネーチャンにモテモテなんですよね?」
「そーだぜ。着痩せして全くそうは見えないのに、片手じゃ余るくらい柔らかくて可愛い、ボインなオッドアイのネーチャンにな」
「ほわっ」
指先で軽く脇腹を小突かれて、アリスは思わず変な声を上げてしまった。
真っ赤な顔で睨み上げても、彼はどこ吹く風でこちらを一瞥も返してこない。
アリスとてそこまで子供ではないので、やり返す事はしなかったが、後で覚えておけと、心の中で恨みつらみを吐き出しておいた。
ふと、いつの間にか立ち止まっていた案内人が、アリスを振り返っている。
彼女の前には、氷山に埋まるように立っている建造物の一部が見え、取っ手がついた頑丈な扉が鎮座していた。
案内人は全員が傍に来たことを確かめてから、ゆっくりと扉を引き開ける。
中に通されたそこも、外界と変わらないほど厳しい気温の場所だ。
しかし氷山が取り込んだ微かな光が反射し、灯りがないにも関わらず視界を確保できる。
アリスが周囲を見渡し足を踏み出そうとして、背後からエリザヴェータが腕を掴んだ。
「我が王、あれを」
「……あれは……?」
険しい顔で指さす方角を見れば、蔓性の植物……のような何かが、天井からぶら下がっている。
よく見ればその夥しい量に、アリスは眉間に皺を寄せ口を閉ざした。
何を目的にした部屋かは検討もつかないが、天井を覆う植物が風もないのに、ゆっくりと上下に蠢いている。それは動物が呼吸する動作にも似ていた。
警戒を強めるアリスに、同じく見上げていたシアドが口を開く。
「オメー様に見せたかったのは、アレだ。この場所は古代遺跡らしいんだが、最近、あの怪物が巣食ったらしい。俺の力でどうにか出来れば良かったんだが、現地の奴らが煩くてよ」
「…………オマエが、げんきゅう目的で、許可なく入り込むからでしょ」
不意に、小鳥がさえずるように可愛らしい声が、シアドの話を遮った。
アリスが顔を向ければ、案内役を務める女が、動物の骨格を外して素顔を見せる。
ボサボサと飛び出した灰褐色の髪を、左右から編み込みながら結い上げた少女だ。顔立ちは子供らしく、けれども気怠げな三白眼は、大人の女を思わせて、ドキリと心臓が跳ねる。
彼女はプラムグレイの瞳を和らげ、アリスに向かって改めて一礼した。
「……お会いできて、光栄です、戦禍の女神さま。……ボクはチェルディーバ。……チェルディーバ・ヴィオラカフ」




