第二十四話:少年の記憶
**二つの魂が、この世界に落ちてくる。**
人の心を種として万の言の葉とぞなれりける。
その言の葉、いづこより出で来たる言たるや。
(万の言の葉――なれりける――。なぜだ、なぜ今、私の脳裏にそんな古い地球の詩が浮かぶ……?)
長瀬の意識が混沌に囚われた夜。
カルラディア南西の空は、いつもよりざわついていた。
「……風が、泣いている?」
ツィーラが呟いた。
草原を渡る風が、まるで何かを警告するように震えている。
アルドが眉をひそめる。
「泣く風なんてあるかよ。気のせいだろ」
「でも……聞こえるんです。風が、何かを運んできてる」
その時――。
**空が、ひときわ強く揺れた。**
まるで、見えない何かが空気を押し分けたように。
ツィーラの耳に、微かな声が届いた。
(……あれ? 姉貴、なんか光ってねぇ?)
(光ってるねぇ。あんた、また変なボタン押したんじゃないだろうね?)
(押してねぇよ! てか、俺たち今どこ飛んでんだよ!)
ツィーラは思わず空を見上げた。
「……誰か、話してる?」
アルドも、ノヴァも、ホラも、耳を澄ませた。
だが、聞こえるのは風の音だけだった。
カルラディアの上空。
二つの影が、ふわりと浮かんでいた。
一つは少年のような声。
もう一つは、少し枯れた、年季の入った女性の声。
(……ここ、地球じゃねぇよな?)
(当たり前だろう。自分でも言ってたじゃないか、地球じゃないって。それにブラックホールに吸われて地球に戻れるわけないじゃない)
(そうだけどよぉ、でも空気あるし、重力もあるし……なんか地球っぽくね?)
(地球っぽいだけで地球じゃないよ。ほら、あの山脈の形。地球の地質じゃない)
少年の影は、ふわふわと漂いながら言った。
(てか姉貴、なんで俺たち“影”になってんだ?)
(知らないよ。ブラックホールに聞いておくれ)
(聞けるかよ!)
姉の影は、くつくつと笑った。
(まぁ、悪くないじゃないか。身体がない分、軽いしね)
(軽いとかそういう問題じゃねぇ……)
少年はぼやきながらも、どこか楽しそうだった。
(……でもさ、姉貴。なんか下の方、光ってね?)
(光ってるねぇ。焚き火かい? それとも……)
二つの影は、ゆっくりと地表へ降りていった。
その頃、地上では――。
長瀬が、頭を押さえていた。
「……くっ……まただ……」
ツィーラが駆け寄る。
「長瀬さん、大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……じゃない……」
長瀬の視界が揺れる。
思考が勝手に“宇宙の謎”へと逸れていく。
「ブラックホール……情報の消失……ホーキング放射……
いや、違う……これは……因果の逆流……」
アルドが焦る。アルドの内部でもプリムスが鼓動を早くする。心配しているのだ。
「おい長瀬、しっかりしろ!」
「しっかり……? しっかりなんてできるか……
いや、待て。何らかの力が……私の思考を妨げている……のか?
くっ、未来からの……因果が……押し寄せて……
思考が……混ざる……!」
長瀬の声は震えていた。思考は混乱し、視界が泥濘のように揺らぐ。
しかし、混沌に囚われたままツィーラを危険に晒すわけにはいかない。
精一杯の力を振り絞り、周囲に注意を促す。
「来る……来るぞ……!
“未来からの来訪者”が……!」
その瞬間、空から声が降ってきた。
(おーい! そこの焚き火の人間たちー!)
(ちょっと聞きたいんだけどさー!)
ツィーラ達は固まった。
エルドレットが呟く。
「……空が……喋った?」
空の二つの影は、ゆっくりと降りてくる。
(姉貴、あれ人間じゃね?)
(そうだねぇ。久しぶりに見るねぇ、人間)
(久しぶりって……姉貴、いつ人間見たんだよ)
(さぁねぇ。昔の記憶は曖昧さ)
(曖昧って……)
二つの影は、焚き火の上空で止まった。
ツィーラは、息を呑んだ。
「……あなた達は……誰?」
影は、ふわりと揺れた。
(俺? 俺はニューホライズンズ!)
(私はパイオニア11号。よろしくねぇ)
アルドの内でプリムスが叫んだ。
「探査機じゃねぇか!!」
長瀬は、震える声で言った。
「……やっぱり……来た……
未来から……ブラックホールを越えて……
“魂”になって……ぐっ!」
ツィーラは、影を見つめた。
「あなた達……どうしてここに?」
影は、少しだけ沈黙した。
そして――。
(さぁ?)
(気がついたら、ここにいたのさ)
二つの影は、まるで“何かを隠している”ように微笑んだ。
***
カルラディアの空を漂いながら、少年の影はふと立ち止まった。
(……懐かしい匂いがする)
風が頬を撫でるように通り抜ける。
その瞬間、胸の奥に“古い記憶”が灯った。
(あれは……いつのことだったっけ)
地球の空気に似た温かさ。
土の匂い。
遠くで聞こえる子供たちの笑い声。
影の少年は、ゆっくりと目を閉じた。
そして――記憶が開いた。
---
彼は、幼い頃に野球と出会った。
小さな庭。
擦り切れた軟式ボール。
子供用のバット。
裕福ではなかったが、毎日が輝いていた。
日の出より早く起きてバットを振り、日が暮れてもボールを投げ続けた。
「もっと、もっと上手くなりたい!」
その願いだけで、少年は走り続けた。
やがて町内の少年野球チームに入ったが、最初は誰も相手にしてくれなかった。
「小さすぎる」「危ない」「練習にならない」
そんな声ばかりだった。
だが――。
初めてキャッチボールをした日。
少年の投げたボールは、矢のように一直線に飛び、年上の子のグローブを弾き飛ばした。
「すげぇ……!」
その瞬間、少年はチームの中心になった。
投げてはエース。
打っては4番。
小さな身体に宿る才能は、誰よりも輝いていた。
だが、初めての試合で、少年は“敗北”を知る。
相手チームのピッチャーは――女の子だった。
小柄で、球速も遅い。
だが、バットは空を切った。
彼女は左投げだったのだ。
脳内の予測エンコーダー(計算)が、見慣れない角度から来る球の軌道に対応しきれない。微妙に揺れる変化。
少年の“才能”は、初めて壁にぶつかった。
そして試合に負けた。
少年は泣きながら、空を見上げた。
「……悔しい……!」
だが、その悔しさが少年を変えた。
右利きだった彼は、左投げを学び始めた。
やがて右でも左でも投げられる“両投げ投手”になった。
努力は才能を超え、才能は努力を追い越した。
けれど――。
少年は、身体を壊した。
左肘の故障。
身体のバランスの崩壊。
右腕も、かつての精密さを失った。
投げても、どこへ飛ぶかわからない。
守備もできない。
打撃も狂った。
少年は、野球を諦めた。
夢が砕けた瞬間、少年は空を見上げた。
「……俺は、何者なんだろう」
その問いは、ずっと胸に残った。
やがて彼は、野球とは無関係の道――宇宙科学の研究者となった。
星を見上げるたびに、少年の心は静かに疼いた。
「もし、あの時……違う未来があったら」
だが、その未来は訪れなかった。
少なくとも――地球では。
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カルラディアの空を漂いながら、少年の影は呟いた。
(俺は……あの少年だったのか?
それとも、誰かの記憶を見ているだけなのか?)
姉の影が横で笑った。
(どっちでもいいじゃないか)
(どっちでも……?)
(そうさ。荘子の“胡蝶の夢”って知ってるかい?)
少年は首を傾げた。
(人間が蝶の夢を見ていたのか、蝶が人間の夢を見ていたのか……
どちらが本当かなんて、誰にもわからない)
姉は続けた。
(でもね、どちらであっても“自分”であることに変わりはないさね。
夢でも現実でも、今ここにいる“きみ”が本物なんだよ)
少年は、ふっと笑った。
(……そうか。
俺が野球少年でも、探査機でも、影でも……
どれでもいいんだな)
(そういうことさね)
風が二人の影を撫でた。
(だったら……これからの人生、面白おかしく生きてやるよ)
(人生って言えるかどうかは微妙だけどねぇ)
姉が肩をすくめる。
二人は笑いながら、地表へと降りていった。
少年の影は、地上の焚き火を見つめた。
(……あそこにいるのが、俺たちを呼んだ“誰か”か?)
(さぁねぇ。でも話してみれば、そのうちみればわかるさ)
二つの影は、ゆっくりと降下を始めた。
それは――
ツィーラ達との“未来を照らす因果”へと続く、
運命の一歩だった。




