花畑を駆け抜ける少女
本日二話目です。
くそ、このバカ女!!
制止するために俺が一瞬止まったせいで、赤ん坊がさらに距離を詰める。
今まで走ってきたおかげで10メートルほど赤ん坊との距離が空いていたというのに、今の一瞬で距離を一気に詰められた。
「アダァァァァ!」
ああああくそ!
今のが最後のチャンスだったのに!!
今俺が立ち止まった場所から先は、両脇の壁が迫り出しており少しだけ道幅が狭くなってくる。
広い道で何とか立ち回れる最後のチャンスを逃した俺は、バッグを締め直し振り上げられた赤ん坊の手を逃れるためにそのまま走り続けるしかなくなった。
俺の少し前をキュリが走り、俺がそれを追いかけ、そのすぐ後ろを赤ん坊が這ってくる。
打つ手がなく、頭が真っ白になりながら俺達は腕の花畑の前へとたどり着いてしまった。
ど、どうする!? こうなったら俺だけでもなんとか引き返して――
そう考える間もなく、キュリが腕を蹴散らそうとしながら花畑へと突っ込んでいく。
引き込まれる!! もう、ダメだ!!
「――え?」
そう思い目を閉じたくなる衝動に駆られた俺の目の前で信じられない事が起こった。
キュリの目の前に咲いていた腕が、消えた。
いや、キュリが蹴散らそうとした腕が、地面に一瞬で潜ったのだ。
まるで、指でつつかれたイソギンチャクのように次々と腕の花たちが地面へと隠れていく。
その様子を見たキュリが、一瞬得意げな、勝ち誇ったような顔で振り返った。
「ごらんなさい! 私が正しかったでしょう?」とでも言いだしそうな顔だった。
なんて腹立たしい顔だろうか。
そして、それがキュリが見せた最後の表情だった。
前へと振り向いたキュリが、スピードを上げる。
赤ん坊が予想外に近かったからなのか、それとも腕の花が安全と踏んでのことだろうか。
とにかく最後の力を振り絞ったキュリの走りは、今までで一番早かった。
地獄の花畑を、少女が切り裂くようにして走り抜けていく。
まるで聖書の一節かのような幻想的で奇跡的な光景。
ぬおおお、この女まだまだ走れるじゃないか! 何がもうだめだよ!
だけどいける! 後はこれで俺が――!!
「……え?」
その一瞬見えた希望は、所詮幻想だった。
ほんの少し、ほんの少しだけ俺と赤ん坊を引き離したキュリの脚が、腕の花へと触れた。
刹那――
「キュ……キュリ!!」
俺が叫ぶと同時に、目の前でキュリが消えた。
「キュリーーーー!!!」
他の腕が地面に沈むと同じく、キュリを掴んだ腕がキュリごと地面へと完全に引きずり込んでしまったのだ。
一瞬の出来事だった。
ズルンと死肉の中へと吸い込まれていったキュリが消えた穴は、すぐに閉じた。
吸い込まれる瞬間、抱きかかえられていた弟をキュリが手放し俺に託したが、追い抜きざまに手を伸ばそうとした時、彼もまた他の腕の花へと掴まれ消えた。
――バキバギゴリゴギャ……
何も、出来なかった。
悲鳴すら聞こえることはなく、通り過ぎた地面から何かが砕ける鈍い音だけが暗く鳴り響く。
その音が何を意味しているのか、嫌でもわかってしまった。
「あ……あぁ……」
「ホギャアアアアアアア!!」
……うそ……だろ?
一瞬の出来事に、思考が追い付かない。
しかし、呆然としながらも、足を止めることはできなかった。
目の前のおもちゃが減ったことに、赤ん坊が憤り暴れ出したのだ。
ただ、走るしかなかった。
暴れまわることにより、赤ん坊のスピードが少しだけ落ちた。
俺は、赤ん坊に合わせて自分のスピードを落とす。
近すぎず、離れすぎず距離を保つ。
そういう事だったのだ。
腕の花は、キュリを避けていたんじゃない。
赤ん坊が近づくと、地面へと沈むんだ。避けていたのは、赤ん坊。
その感知範囲内に俺達が居ただけで、キュリはその範囲から出てしまったため腕に掴まれた。
皮肉なことに、キュリ達が死んだことで腕の花が沈んだ理由が理解できた。
キュリ達が消えてすぐに、花畑を抜けた。
そこは、T字になっている通路が丁度交わる場所。
目の前には背の低い立方体があり、その肉壁にこそ俺達が求めていた扉があった。
肉壁に覆われて、今まで決して開かれることのなかった扉だ。
びっちりと肉に覆われた扉は、簡単に開きそうにない。
……こんな扉、追いかけられたままどうやって開くつもりだったんだよ。
「アアアダアアアア」
すぐ後ろには、癇癪を起こして暴れまわる赤ん坊が迫っていた。
俺は力尽きたように、ゆっくりと足を止める。
もう、足が上がらない。
心も体も、限界だった。
……もう少しだったのに。
俺は立ち止まると、準備して開けておいたバッグからある物を取り出した。
それを地面に撒いた俺は、ゆっくりと壁へと近づき肉壁の扉を撫でながら探りはじめる。
……なぁ、キュリ。あと少しで、こうやって逃げられたのになんで居なくなるんだよ。
「ギャアアアアアーーー!」
すぐ後ろからは、赤ん坊の悲鳴と体を強く打ち付けるような音が聞こえる。
どうやらうまくいったらしいが、後ろを確認する気にもなれなかった。
心のどこかで失敗しても構わないと思っていたのかもしれないが、もうどうでもよかった。
ぺたりと触った肉壁は、ぬめりと弾力があり気持ちが悪い。
……やっぱり。
肉壁を触っている左手が、だんだん熱を帯びて熱くなってきた。
さらに力を籠めると、肉壁に変化が訪れる。
紫っぽかった死肉が、さらに黒さを増して変色していく。
しかも、まるで酷い湿疹のように触れていた部分が爛れて崩れていく。
煙突の中から出た時の、死肉の症状と同じだ。
あの時左腕で押しのけた部分だけが変化を起こしており、それと同じ症状が屋上から降りる時も発生して手を滑らせてしまった。
周囲が腐り落ち枯れたた死肉は、そこから腕を壁との間に差し込めばべりべりと壁から剥がれていく。
そうしてすぐに姿を現した木の扉を、ゆっくりと開いた。
薄暗い、石の部屋だ。
俺はその中に入ると、今まさに地面からべりべりと手や足を剥がして泣き叫んでいる赤ん坊を一瞥した。
「オギャアアアアアア!!」
……やっぱり、下が肉だからすぐに動けるか。
ちらりと視線を動かせば、暴れる赤ん坊の背後にはキュリ達を引きずり込んだ腕の花が再び咲き誇っているのが見えた。
心なしか、あの場所の腕の花の本数が少しだけ増えたように感じる。
「ダァァァァ!」
――バタン。
そのまま、自由になり動き出した赤ん坊へと視線を戻しながら俺は扉を閉じた。
俺と一緒に入り込んだ赤い霧が、仄かに光り周囲がうっすらと見える。
石造りの部屋に、いくつかの家具が並ぶだけの閑散とした部屋だ。
音は、何もない。
俺は、崩れ落ちるようにして石畳の上に直接寝ころんだ。
息が、今になって切れている。
「はぁ、はぁ、はぁ……は……ははははは」
生き延びてやったぞ……。
心は、何も笑っていない。
うれしくも、悲しくも、寂しくもない。
なのに、何故か口から笑いが出た。
頭で、理解しているからだろうか。
人が居た。
外から、人が降ってきたってことは、外に人が居るってことだ。
それを理解しているからこそ、俺の口から笑い声が漏れているんだろう。
そうだ、外に人が居るんだ。
キュリ達みたいな、人が――
「あははははははははははははは……あー………あーーー」
笑うのにも疲れ、ただただ声が漏れる。
その声が、だんだんと震えていった。
「………あ”ぁぁぁぁぁぁ………あ”ぁ”ぁ”ぁ”」
俺は、この体になって初めて声を出して思い切り泣いた。
ここで、一区切りつきます。
逃げまわる話が続き、すみません。
いかがでしたでしょうか。
次は閑話を挟んで展開が変わります。