第二話 弦が呼び覚ます知識の洪水・守り手と呼ばれた日
完結保障、全68話。
毎日投稿予定。
13歳の誕生日は、静かに来て、静かに過ぎた。
母のノラが誕生日だからと蜂蜜をパンに垂らしてくれた。父のガレンが家族でいちばん先に「おめでとう」と言い、妹のナイアも笑って続いた。
夕方には幼馴染のアレックが木の実を詰めた袋を一つ置いて、すぐに帰っていった。
その夜、布団の中でリサは天井を見上げていた。
12の頃から胸の奥に何かが入ってきた感じがずっと続いている。13になってもそれは消えない。むしろ少しずつその輪郭がはっきりしてきている気がした。
村の港側にドロスの工房がある。石を積み上げた小さな建物で、扉はいつも少しだけ開いたままだ。膠を煮る匂いが路地にまで漂っていた。
弓を作る職人のドロスは、白髪まじりの短い髪に節くれだった指をした男で、腕が良いと知られていたが、人付き合いは少ない。
リサが工房に出入りするようになったのは8歳の頃、雨宿りがきっかけだった。「ここにいてもかまわんが、邪魔するな」とだけ言われ、それから時々工房へ来ては、隅に座って木を削る音を聞くようになった。
誕生日から十ヶ月あまりが過ぎたある朝、リサはいつものように工房へ来ていた。
ドロスが壁から弓を一本外し、弦を指で弾く。
いつも聞いている音のはずなのに、この日は違って聞こえた。胸の奥の何かに直接触れてくるような感覚だった。
「触ってみるか?」
初めて言われる言葉だった。
リサは立ち上がり、差し出された弓を受け取る。
体が勝手に動いた。左手が持ち手に添い、右手の指三本が弦にかかる。弓を起こしまっすぐ伸ばし、弦を引くと右腕の肘がわずかに上がった。
誰に教わったわけでもないのに、何度もやったことがあるように手が動く。
ドロスが少し驚いた顔でその動きを見ていた。リサはそっと弓を戻し、何も言わずに工房を出た。
翌日の昼過ぎ、村の子供たちと一緒に魔法を練習した。
小さな火をおこす、小石を宙に浮かべる。この村の人間なら誰でも使える程度の魔法だ。
リサも幼い頃から同じようにやってきたが、指先に集中しても何も起きない。
一昨日までは何も考えずにできていたことだった。何かが少しずつ抜けていくような感覚が指先にある。
落ち込んで一人で村はずれに来ていたとき、子供たちの悲鳴が聞こえた。
広場の方から白い大きな塊が現れる。熊かと思ったが違う、見たことのないほど大きな犬だった。
毛が真っ白で金色の目をしている。
村の大人たちが弓と槍を手に飛び出し、白い犬を取り囲んだ。
中には父のガレンもいる。背が高く、短く刈った黒褐色の髪が人垣の上に見えた。
リサは足が動かなかった。工房で弦の音を聞いた時と同じ感覚だった。懐かしい、という思いが恐怖より先に立つ。
犬はリサの方だけを見ていた。唸らない。牙も見せない。
まっすぐ歩いてきて、大きな鼻をリサの顔に近づけ、頬を舐めた。
「リサ、ゆっくりその犬から離れろ!」
ガレンの弓を構える手がかすかに震えている。リサは犬の前に立ちふさがった。
「殺さないで。この子、おかしくない。怖くないの」
犬が「クーン」と鼻を鳴らし、尻尾を左右に揺らす。凶暴な様子はどこにもない。弓と槍が少しずつ下がっていく。
「野犬にしちゃ、人に慣れすぎてる」「番犬にはちょうどいいんじゃないか。村で飼ったほうがいい」
大人たちが頷き、ガレンも弓を下ろした。
犬の大きな鼻を見て、リサの頭に「クルミ」という言葉がふっと浮かぶ。なぜ知っているのか分からないが、その色と形がどこかで見た木の実に似ていた。
「クル」
声に出した瞬間、白い犬の尻尾が大きく動いた。「ワンワン!」とうれしそうに二度吠え、前足で地面を掻いてリサの周りを回る。
(知ってる、知ってる。会いたかったよ)
言葉ではない、感情の断片が直接、胸に届いた。この犬はリサのことを知っている。
クルの鼻先がリサの手に触れた瞬間、頭のなかに洪水のような光が流れ込んできた。
見たことのない弓の断面図。木と竹の削り方。矢じりの形と重さの計算。植物の名前と薬の作り方、骨の接ぎ方、包帯の巻き方、星の動きから方角を読む術。
一人の人間が抱えられる量ではない知識が、次々と押し寄せてきた。頭が痛い。吐き気がする。それでも流れは止まらない。
気づけばリサは草の上に座り、クルがすぐ横にいた。頭は重いが、怖くはなかった。断片がゆっくりと収まるべき場所に収まっていく。
(この弓が作れる)
なぜそう思ったのか分からない。でも、確かにそう思えた。
クルがリサの手をぺろりと舐め、甘えるように「クーン」と鼻を鳴らした。
---
ドロスの工房の前に立つといつも少し落ち着いた。
クルはこの二日、当然のようにリサについて歩き、工房でも作業台の横に丸まっている。
ドロスは最初の日だけ一度横目で見て、それ以来は何も言わない。
弦の音を聞いてから三日が経った。夕方、ドロスが棚から弓を一本取り出してリサに渡した。
「貸してやる」
理由は言わない。リサは弓と矢を数本受け取って工房を出た。
その夜、アレックが走ってきた。
「また来た。畑が荒らされてる」
村の外れの麦畑に、大型の猪に似た害獣が出るようになっていた。
体長は大人の背丈ほど、黒褐色の剛毛に覆われ、背中の毛は逆立つと刃のようだ。
夜になると数頭で現れ、麦を踏み荒らしていく。村では三日前から夜番を組んでいたが、獣の動きが速く、なかなか近づけずにいた。
リサの父ガレンが槍を持って表に出る。
年長の男が「子供たちも来い。弓の練習も兼ねてできるところを手伝え」と声をかけた。
リサはドロスに借りた弓を持ってアレックと走った。クルも横についてくる。
畑では大人たちが横一列に広がり、三頭の獣が端を踏み荒らすのを牽制していた。
放たれた矢の大半は脇の地面に落ち、中ったものも分厚い脂肪と硬い毛に跳ね返される。
リサは弓を持ち上げた。体が動く。
右手の指先が弦にかかり、左腕が自然に前に出る。肩甲骨が中央へ寄っていく。工房で初めて弓を引いた時と同じ感覚だった。
三十歩ほど先、一番大きな獣の足元を狙い、放つ。矢が地面に刺さり、鋭い音がした。獣が動きを止める。
もう一本、逃げ道を塞ぐように進む先の草むらへ。獣が向きを変えた。
三本目は横へ回り込もうとした一頭の鼻先に打ち込む。三頭とも森の方向に走り出した。
年長の男が振り返り、リサを見る。
「殺さなかったな」とアレック。
「追い払えばいいんでしょ。それで十分よ」
アレックはしばらく黙って、リサの顔と、麦がほとんど無事だった畑を見比べていた。
翌朝、村の広場で年配の女性に声を掛けられた。
「獣を追い払ったんだって? 大したもんだ。守り手がいてくれると助かる」
守り手。その言葉が少し心に残った。
夕方、ナイアが「一緒に行く」と言って聞かず、海辺に付いてきた。クルも一緒だ。
内海だから波は穏やかで、水面が夕日を受けて橙色に光っている。
ナイアが波打ち際で足を水につけて笑い、リサは岩に腰をかけて海を見ていた。
しばらくしてナイアが振り返った。丸い頬は笑っていたが、大きな目が少し違った。
「お姉ちゃん、ここにずっといる?」
聞き方がいつもと違った。
夜の畑に弓を持って行ったこと、工房に通い続けていること、弦の音を聞いた日からどこか遠くを見るようになった顔。ナイアはそういうことに敏い。
リサは少し間を置いて答えた。
「いるよ」
答えてから、その言葉の根拠のなさに気がついた。
頭の中に浮かんだ遠い的。体が知っていた弓の引き方。何かが、ここではないどこかへ向かって引っ張っている気がした。
それをナイアには言わなかった。
ナイアが少しだけ安心したような顔をして、また波に足を浸ける。
その時、クルがすっと立ち上がった。北側、山の方をじっと見ている。耳が真っすぐに立ち、鼻が動いていた。
リサには何も聞こえない。何も匂わない。それでもクルは、しばらくの間、微動だにせずその方向を見続けた。
波が寄せてきて、また引いていく。「いるよ」と言った言葉だけが、静かに残っていた。




