第三十二話 常闇の深淵迷宮
『黒銀の奈落』の地上拠点から移動し、さらなる強者と概念を求めて西へと足を進めたナタルとスターシャ。二人が辿り着いたのは、大陸を真っ二つに引き裂く巨大な亀裂——『西の大断層』の地であった。
「……ここが西の大断層、そしてその最深部に広がる『常闇の深淵迷宮』ね」
風が吹き抜ける断層の縁に立ち、スターシャが下方の深い闇を見下ろす。「噂通り、地上まで禍々しい魔力が渦巻いているわ。南の霊峰や黒銀の奈落とはまた異なる、混沌とした密度の濃さね」
「ふん……上等だ」
ナタルは黒い手袋の形を静かに整え、凶悪な笑みを潜ませた冷徹な眼差しで闇を睨みつけた。
「手応えのない雑兵ども相手では『器』の拡張にならん。この断層の深部に眠る概念、全て俺の血肉として喰らい尽くしてやる」
「相変わらずの貪欲さね。でも……今回は呑気に概念を選り取り見取り、というわけにはいかないかもしれないわよ?」
スターシャが眉をひそめ、気配遮断を徹底したまま眼下の一点を指さした。
断層の斜面、そして『常闇の深淵迷宮』の巨大な洞門前。そこには、空間を埋め尽くさんばかりの漆黒の蠢きがあった。
ギチギチと不気味な顎鳴らしの音を響かせる巨大甲虫の群れ、全身から黒炎を噴き上げる魔獣の群勢、そして整然と隊列を組み長槍を構える異形のアドバンスド・モンスターたち——。その数は数百、いや数千を軽々と超えている。かつて中層で遭遇した魔物たちの群れなど比較にならない、圧倒的な密度のモンスターの大軍勢が、迷宮の入口を完全に封鎖するように立ち塞がっていた。
「……どうやら、私たちの来訪を歓迎してくれる気はないみたいね」
スターシャが肩をすくめつつも、高揚感を含んだ視線をナタルに向ける。
だが、ナタルは怯むどころか、広大な死地を前にゆったりと一歩を踏み出した。
「圧倒的多数、か。……結構なことだ」
ナタルの瞳に、底知れぬ強欲な光が宿る。
「群れていようが関係ない。向かってくるすべての命と能力(概念)を……残らず俺の『器』へと足し増すだけの話だ」
最弱の『Lv.1』は、黒い手を解き放ち、押し寄せるモンスターの大軍勢の中へと真っ直ぐ踏み込んでいった。
立ち塞がる数百、数千のモンスターの大軍勢を前に、ナタルは躊躇なくその真っ只中へと歩みを進めた。気配遮断を完璧にこなすスターシャの背後で、黒い手を解き放ったナタルの全身から冷たい圧力が溢れ出す。
ギチギチと顎を鳴らす巨大甲虫が鋭い鎌を振り下ろし、黒炎を噴き上げる魔獣が灼熱の息吹を放ちながら一斉に躍りかかる。だが、ナタルはその攻撃の全てを最短の動作で叩き落とし、あるいはすれ違いざまにその身体へと触れ渡っていった。
接触した瞬間、モンスターたちの命の灯火とともに、その肉体の力や特殊な概念が膨大な濁流となってナタルの『器』へと流れ込んでいく。
「ギギャッ……!?」
「ガァァァッ……!」
群れをなしていたはずの魔物たちが、ナタルに触れられた端から乾いた土塊のように崩れ落ち、次々と消滅していく。前衛を粉砕し、ナタルたちが『常闇の深淵迷宮』の中層——空間が一変し、複雑に折り重なる黒結晶の回廊へと足を踏み入れた頃には、道中に転がっていた数百の命はすべて彼の血肉へと変貌していた。
群れを蹴散らし、なおも底知れぬ強欲さを覗かせるナタルの背中を見つめながら、傍らを歩くスターシャがふっと息を漏らした。
「……ねえ、ナタル」
気配遮断を維持したまま、スターシャがどこか楽しげで、それでいて探るような眼差しをナタルに向けてくる。
「そろそろ中層に入って、敵の質も量も一段と跳ね上がってきたけれど……流石に今回は、私も少し参戦していいかしら?」
「……参戦だと?」
ナタルは足を止めず、振り返りもせずに短く問い返した。
「ええ。せっかくここまで来たんだもの、ずっと観客席で見物しているのも退屈じゃない? もちろん、あなたの『素材』を横取りするつもりはないわよ。私が適度に群れを散らして『間引き』してあげれば、あなたが本命の概念を効率よく喰らうための手助けになると思うのだけれど……どうかしら?」
Lv.250の強者としての笑みを深めるスターシャ。自身を『素材調達の邪魔』にならないよう隠蔽させられてきた彼女からの提案に、ナタルは静かに思考を巡らせた。




