第二十八話 復讐を終えて
『膨張する器と欠損する人間性』
静寂が支配する自室で、ナタルは己の内側と対峙していた。
『概念吸収』により、奪い、喰らい、統合してきた無数の力。魔物の『絶対耐性』、武人の『極意』、元仲間たちの『誇り』や『技巧』——それらはナタルの『器』の中で完璧に分解され、一つの完璧な『暴力のシステム』へと再構築されている。
ステータスは相変わらず『Lv.1』のままだ。しかし、その体内に宿る密度は世界の理すら歪める領域に達しつつあった。
かつて追放され、ただ生き延びることすら惨めだった荷物持ちの能力は、いまや世界の覇者すら呑み込み得るほど爆発的に伸びている。
(……だが、この「何か」の欠絶はなんだ?)
ナタルは静かに己の胸に手を当てた。
かつて元仲間から「足手まとい」と切り捨てられた時の、あの焼けるような激怒。自分を嗤った世界への底知れぬ憎悪。
それら己を動かしていたはずの「熱い感情」すらも、過剰な概念を最適化し、完璧な理へと肉体を書き換えていく過程で、冷徹なデータの一部として削ぎ落とされていることに気づく。
復讐すらも終えた。いまや彼らを圧倒的な上位互換として踏みにじっても、心に湧き上がるのは感動でも快感でもなく、ただ「処理を終えた」という無機質な虚無感だけだった。
能力が人間を超越するたび、感情のひだ、恐怖、他者への情愛といった「人間としての歪み」が急激に削ぎ落とされ、機械のような冷酷な効率性へと変貌していく。
己が「強い人間」になっているのか、それとも概念を呑み込むだけの「器という名の怪物」に成り下がっているのか。
(俺は……まだ「俺」なのか?)
問いかけても、体内で静かに脈打つ圧倒的な概念の奔流が、無慈悲に「機能」としてそれを肯定するだけだった。
コンコン、とノックの音が響き、ドアが開く。
「ナタル? また暗い顔して瞑想? あんまり根詰めすぎると、せっかくのイケメンが台無しよ」
手に温かいお茶を持ったスターシャが、気やすさと上品さをあわせ持つ笑みを浮かべて入ってきた。400年を生きてなお人間臭さを残す彼女の存在だけが、化け物へと変質し続けるナタルの精神を、かろうじて「人」の領域へと繋ぎ止めているようだった。
ナタルは深く息を吐き、黒い手袋の感触を確かめるように拳を握りしめた。
「……いや、問題ない。ただ、少し精神の概念の整理に戸惑っているだけだ。」
スターシャは、静かに語りだした。
「あなたの能力が人間を超越するにつれて、精神の柔軟性や感受性が摩耗していくのは、当然の帰結とも言えるわね」
スターシャは手にしたお茶に小さく息を吹きかけ、温かな湯気の向こうからナタルを静かに見つめた。その瞳には、400年の時を生きてきた者特有の洗練された気品と、長きにわたって数多の者を見送ってきた深い包容力が宿っている。
「膨大な概念を呑み込み、短期間で『器』を強引に最適化し続けている。感情や情愛といった人間特有の揺らぎは、極限状態の処理において効率を阻害する『雑音』として削ぎ落とされてしまうのよ。それは歪みというより、怪物の理に適応しようとするあなたの防衛本能に近いのかもしれないわね」
彼女は一口お茶を口に含み、ふっと柔らかく微笑んだ。
「でもね、ナタル。自分が化け物になりつつあると自問自答し、その虚無感に恐怖しているうちは、あなたはまだちゃんと『人間』よ。本当に心を失った存在は、己が歪んでいることにさえ気づけないんだから」
スターシャは気やすくナタルの隣に歩み寄ると、軽やかに背中をぽんと叩いた。
「元仲間への復讐という最初の熱が冷めたなら、次はどうするの? 世界の管理者を喰らうでも、この理を書き換えるでもいい。その空っぽになった胸の奥に、次は何をくべようとしているのか……私に教えてちょうだいな」
「そうか……俺は、まだ『人間』なのか」
スターシャの言葉が、ナタルの胸の奥に静かに染み渡っていった。
胸に手を当てると、そこには過剰な概念の奔流とともに、かすかではあるが確かに打ち打つ鼓動を感じることができた。
己の精神が冷酷に最適化され、無機質な器へと変質していく感覚に抱いていたのは、かすかな「恐れ」。もし本当に完全に感情を失った化け物になっていたのなら、自分が壊れていくことにすら自問自答などしなかったはずだ。
安堵の息を静かに吐き出すと、強張っていたナタルの肩の力がわずかに抜けた。
「……礼を言う、スターシャ」
黒い手袋をはめ直し、ナタルは視線を上げた。瞳の底に宿る冷徹な炎は消えていないが、先ほどまでの無機質な暗雲は払われている。
「空っぽになった胸の奥か。……元仲間たちへの清算が終わった今、俺が向かうべき場所は一つしかない」
ナタルは立ち上がり、ゆっくりと自室の窓辺へと歩み寄った。眼下に広がる街の灯りの向こう、世界の深淵を見据えるように静かに言葉を紡ぐ。
「俺を切り捨てた奴らは消えた。だが、この不条理なシステムを世界に強いる管理者どもが上に君臨している限り、俺の『器』が満たされることはない。ならば次は、世界の理そのものを喰らい尽くし、俺の足元に書き換えて見せるだけだ」
その言葉には、ただの破滅衝動ではなく、己の人間性を抱えたまま高みへと挑む確固たる意思が宿っていた。
スターシャはそんなナタルの背中を頼もしそうに見つめ、クスリと気やすく喉を鳴らした。
「ふふ、言ったわね。世界の理を喰らうだなんて、相変わらずスケールが大きいこと。……いいわ、あなたがどれだけ規格外の怪物になろうと、私がしっかり『人間』の側に引き戻してあげるから、存分に暴れてきなさいな」
「ふっ……頼む」
短く答えたナタルの口元に、どこか人間臭い微かな笑みが浮かんだ。
『Lv.1』の最弱から始まった男は、己の内に残る人間性の欠片を握りしめたまま、世界のシステムそのものを侵略する新たな戦いへと足を踏み出した。




