第十話 俺も飛びたいな
「ちょっと野暮用を思い出してね。先に上がってるか、適当にブラブラしてて」
そう言い残すと、スターシャは軽やかにその身を宙へと浮かべた。詠唱も魔導具の補助すら感じさせない、Lv.250のハイエルフならではの洗練された飛行呪文。風を切り、悠然と青空の彼方へ飛翔していく彼女の姿は、まるで重力という概念そのものから祝福されているかのようだった。
遠ざかるスターシャの後姿を、ナタルは地上からじっと見上げる。
(宙を飛ぶ、か……)
胸の奥で、かすかな欲求が芽生えるのを感じた。
自分の『概念吸収』は、触れた対象の能力、魔力、武技、そして概念そのものを100%己の肉体へと複製・加算する。これまでもアース・ドラゴンの衝撃波や重力干渉といった破格の力を呑み込み、体内で分解・統合することで『器』を押し広げてきた。
だが、「自らの意志で自在に空を翔ける」という純粋な飛行の概念は、まだ手に入れていない。
「俺も……飛びたいな」
遠ざかるスターシャの飛行姿を見送りながら、ナタルはふと自分の足元に視線を落とした。
(……待てよ。わざわざスターシャに触れて飛行呪文を複製・加算してもらう必要すら、本当にないのではないか?)
これまで数々の死闘を経て、体内に取り込み、そして戦いの後に洗練させてきた数々の「概念」。
特に、深層の主であるアース・ドラゴンから奪い取り、自らの血肉として再構築した権能の数々——。
(俺の手元には、すでに必要なパーツ(概念)がすべて揃っている)
ナタルは静かに思考を巡らせる。
まず、アース・ドラゴンから獲得した『大地絶対支配』と重力干渉の能力。あれは単に相手を地面に叩きつけたり、足元を押し潰すためだけの力ではない。自身の足元に逆方向の重力を生成し、広域の超重力を相殺してみせたように、「自身に働く重力のベクトルと数値を自在に書き換える」ことができる。
そして、ヘルハウンドから得た『無詠唱発動機構』と膨大な魔力。さらにはオークマスターや幾多の魔物から奪い、統合・最適化された『身体操作の極意』と爆発的な『剛力』。
これらを組み合わせて、脳内でひとつの仮説を組み上げる。
(重力を完全に無効化、あるいは上昇方向へと反転させる。そこに、空間を蹴り飛ばすほどの圧倒的な脚力と身体操作、そして魔力の推進力を同調させれば……)
それは「呪文を唱えて空中を漂う」という魔法の枠組みではない。
重力そのものを己の足場とし、自在に空間を駆け巡る——いわば『重力自在制御』による擬似飛翔だ。
ナタルは右の手袋を軽く締め直すと、静かに集中した。
体内に眠る、最適化された無数の概念たちが、一斉にひとつのベクトルへと整列していく。
ズン……。
ナタルの足元の空間が微かに歪み、周囲の砂利がふわリと宙に浮き上がった。
「……試してみるか」
ナタルが静かに踏み出すと、彼の身体は一切の詠唱も呪文の光もなく、すっと重力を離れて垂直に上昇した。
大地を蹴れば、空中に不可視の足場があるかのように爆発的な加速を生み出す。風を切る感覚とともに、一瞬でスターシャが飛んでいった高度へと到達した。
背後から追いついてきたナタルの気配に気づき、前方を飛んでいたスターシャがギョッとして振り返る。
「なっ……!? ナタル!? なんであなたが飛んで……っていうか、それ飛行魔法の魔力波形じゃないわよね!? 詠唱すらしてないじゃない!!」
「飛行呪文ではない」
ナタルは揺らぐことのない安定した姿勢のまま、空中で静かにスターシャと並んだ。
「これまでに喰らったアース・ドラゴンの重力干渉と、肉体の推進概念を最適化して組み合わただけだ」
「ただの重力操作でそんな自在に空を駆け回れるわけないでしょ……!?」
絶句するスターシャをよそに、ナタルは眼下に広がる世界を見下ろした。
スターシャが
「ちょっと待って、あなた今飛んだ方法は教えてくれたけど、さっきの急制動なに、フライより便利じゃない !」
ナタルは着地することすらなく、空中で片膝を軽く折り、足元に不可視の重力場を固定させて悠然と佇んでいる。
「さっきの急制動……? ああ、空間を蹴った直後に発動した『慣性殺し』のことか」
スターシャが目を見開いて注視する中、ナタルは解説するように右手を軽く掲げた。
「種明かしをすれば単純な理屈だ。アース・ドラゴンから奪い取った重力干渉の概念で、自身の身体にかかる全方向のベクトルと重力数値を一瞬でゼロに書き換えた。そこにヘルハウンドの魔力爆発による逆推進力と、オークマスターの身体操作で殺した衝撃をぶつけただけだ」
「単純な理屈って……! 重力操作と空間推進と衝撃吸収を、コンマ数秒の間で完璧に同調させてるじゃない! 飛行呪文は風と魔力で体を押し流すから、あんな直角に曲がったり一瞬でピタッと停止する動きなんて物理的にも魔法的にも不可能なのよ!?」
あまりの規格外ぶりに頭を抱えるスターシャに対し、ナタルは冷徹な眼差しを崩さない。
「普通の魔法使いは『飛行呪文』というパッケージされた概念に囚われている。だが俺の『概念吸収』は、既存の法則をただ使うのではなく、手に入れた要素を体内で分解・統合し、新たな概念へと最適化する」
ナタルは宙を片足で軽く踏み抜いた。ドォン、と空気が破裂するような音が響き、彼の身体は残像だけを残してスターシャの背後へと一瞬で回ってみせる。
「飛行呪文は『空を漂う』ための技術だが、この重力最適化は『空を戦闘領域として地上以上に制圧する』ための足場だ。急制動も超加速も、全ては空中での旋回性能と威力を跳ね上げるためのパーツに過ぎない」
背後に気配もなく現れたナタルにひやっとしながら、スターシャは呆れたように息を吐いた。
「……はあ、つくづく恐ろしい男ね。呪文を覚えるどころか、すでにある力(概念)を組み合わせて魔法の上位互換を作っちゃうなんて……」
「フッ……。お前が言った『野暮用』の前に、ちょっとした試運転ができた」
深層の主たるアース・ドラゴンから『龍鱗絶対防御』『地竜の生命力』、そして重力すら歪める巨大な概念を呑み込み、激痛の末に体内でそれらを最適化・統合したナタル。
その内側に広がる『器』の容量は、以前スライムやヘルハウンドを喰らっていた頃とは比べものにならないほど広大かつ重密なものへと変貌を遂げていた。
(これだけの『器』へと拡張させたんだ……。アース・ドラゴンの莫大な概念すら己の肉体に収めた今の俺なら、届くはずだ)
安堵の息をつきながら、飛んで近寄ってきたスターシャの手にそっと触れる。
「きゃっ。いきなり何なのよ!?」
その瞬間。
ナタルとスターシャの皮膚が触れ合い、『あの通知』を待った。
……しかし。
待てど暮らせど、システムメッセージが脳内を駆け巡ることはなかった。
(発動……しない……!?)
静寂だけが二人を包み込んでいる。
アース・ドラゴンの強大な概念すら呑み込み、『器』を極限まで押し広げたはずだった。これならばLv.250というスターシャの存在の厚みにも耐えうる、彼女の洗練された魔法や固有の概念も複製・加算できるはずだと確信していたナタルの思考が、一瞬だけ停止する。
「ナタル……? なに、自分の手なんて見つめて」
不思議そうに顔を覗き込んでくる少女。その瞳の奥には、400年という遥かな年月を生きて重ね上げられてきた、底知れぬ「存在の深み」が悠然と佇んでいた。
アースドラゴンのLV350だった。
対峙したとき瞬時に鑑定スキルで確認済みだ。
LV250のスターシャの概念が取り込めないことに奇妙なざわつきを覚えたナタルだった。




