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封蝋師令嬢は白紙の誓約から幸せを結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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第9話 消える封蝋、消えない約束

誓約庫を出たとき、エルシアの指先にはまだ深緑の封蝋の熱が残っていた。


冷たい地下回廊を上がるあいだも、その熱は消えなかった。母の名が記された目録。番号だけが抜け落ちた第四号。白蝋の染み。どれも胸の内で静かに鳴り続け、足音よりも確かな響きになっている。


カイは修復庫長に命じ、雪境通行誓約の金属筒を一時保全室へ運ばせた。開封はしない。ただ、封蝋の状態を記録し、これ以上痕跡が失われないよう仮封を重ねる。それだけの作業のはずだった。


けれど作業台に置かれた筒を見た瞬間、エルシアは息をのんだ。


「色が、薄くなっています」


深緑だった封蝋の縁が、霜を吹いたように白く霞んでいた。つい先ほどまで残っていた赤い細線も、ところどころ途切れている。修復庫長が灯りを近づけると、白い霞は煙ではなく、蝋の表面そのものが粉になるように崩れているのだとわかった。


「保管中に崩壊が始まったのか」


カイの声が低くなる。彼は誰かを責めるより早く、扉の前に立つ衛士へ目配せした。


「この部屋に入った者の名をすべて記録しろ。今から出入りを止める」


エルシアは手袋を外した。素手で触れなければ、奥の熱までは読めない。けれど指を近づけただけで、胸の奥まで冷たい針が通った。


白蝋が、封蝋の芯を食べている。


「今、消えようとしています。外から塗られたものなら削れば済みますが、これは内側から熱を奪う仕掛けです」


修復庫長が青ざめた。


「では、封蝋が落ちれば誓約も」


「いいえ」


エルシアは自分でも驚くほどはっきり答えた。誓約庫で聞いた母の言葉が、まだ手の中にあった。


「正しく結ばれた誓約は、封蝋だけに宿るのではありません。封蝋が触れていた金属、巻き紙の端、押印の圧にも熱は移ります。白蝋は見える色を薄めますが、誓った人たちの意思まで一瞬で消せるわけではありません」


それは、封蝋師として学んだ知識であり、母から受け取った祈りでもあった。


エルシアは作業台に白布を敷かせ、筒を少しだけ傾けてもらった。封蝋に直接力を加えれば崩れる。だから彼女は周囲に落ちた粉を集めず、崩れる前の縁をなぞるように、空気に残った熱を読むことにした。


指先に、幾つもの声ならぬ声が触れた。


雪に閉ざされた峠を開くこと。救援の荷馬車を妨げないこと。北辺の民を王都の都合で飢えさせないこと。王家と北辺領が、互いの名でそれを誓ったこと。


そしてその隙間に、母の熱があった。


――消されるなら、縁ではなく芯を見るのよ。


幼い日の台所で、母は小さな封蝋に針で線を入れ、笑っていた。模様が乱れても中心の温度は残る。そこを読める者になりなさい、と。


「中心の圧痕を写します」


エルシアは薄い銀紙を取り出し、封蝋に触れないぎりぎりの高さでかざした。銀紙は契約修復に使う記録紙で、強い誓約の熱にだけ淡く反応する。高価なため普段は原本の修復後に用いるものだが、今はためらっている場合ではなかった。


カイがすぐにうなずく。


「必要な分を使え。責任は私が持つ」


「いいえ、記録には私の名も入れてください」


顔を上げると、カイと目が合った。彼の瞳に心配が浮かんでいた。エルシアがまた誰かの罪をかぶせられることを恐れているのだとわかる。


だからこそ、彼女は首を横に振った。


「私はもう、名を隠される側には戻りたくありません。見つけたものには、私の名で責任を持ちます」


カイは一拍だけ黙り、それから静かに答えた。


「なら、私の名も並べる。君だけを矢面には立たせない」


その言葉は、胸に置かれた温かな封蝋のようだった。甘い慰めではなく、形を持つ約束。エルシアはうなずき、銀紙を慎重に下ろした。


白く崩れかけた封蝋の上で、銀紙に淡い光が走る。雪松と獅子。二つの印はまだ同じ高さにあった。さらにその下、目には見えない小さな刻印が浮かび上がる。


セレナ・リュネット。


封蝋確認者としてではない。修復証人としての、母の名だった。


「母は一度、この誓約を修復しています」


エルシアの声は震えたが、指は止めなかった。銀紙に写った熱の流れを追うと、第四号へつながる細い枝があった。白蝋はそこだけを執拗に削っている。


「第四号は、この誓約を補うものです。雪境通行誓約だけでは足りなかった何かを、あとから結び直した」


カイが目録を開き、消えた番号の位置を確かめる。


「王家の原台帳にしか残らない種類の追約かもしれない。補助目録から消しても、台帳の綴じ目や索引までは完全には消せない」


「でも、宰相府の上階ですよね」


口にしてから、エルシアは自分の声が怖がっていないことに気づいた。王都の夜会で婚約を破棄されたとき、あの場所は自分を裁くためだけに存在するように見えた。けれど今は違う。確かめるべきものがあり、隣に同じ約束を背負う人がいる。


封蝋の崩壊は止まらなかった。深緑は半分ほど白く濁り、赤い細線もほとんど消えた。それでも銀紙には、二つの紋と母の名が淡く残っている。


カイは記録紙へ自分の署名を入れ、エルシアに羽根ペンを渡した。


「この写しを持って、王家の台帳を閲覧請求する。拒まれれば、その拒否も証拠になる」


エルシアは自分の名を書いた。エルシア・リュネット。かつて濡れ衣の下に押し込められた名が、今は消えかけた誓約を支える場所にある。


白い粉となって落ちた封蝋を見つめながら、彼女はそっと息を吐いた。


見える印は消えるかもしれない。


けれど、結ばれた約束の熱はまだ消えていない。


その熱を拾い上げるために、明日、彼女はもう一度王城の中心へ向かう。

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