第10話 王家の台帳に眠る空白
王城の朝は、夜会の灯よりも冷たかった。
磨き上げられた白い床に靴音が吸われるたび、エルシアはかつてこの城で向けられた視線を思い出した。疑い、嘲り、決めつけ。けれど今日は、あの夜とは違う。胸元の書類筒には、消えかけた雪境通行誓約から写し取った銀紙が収められている。
「閲覧請求は正式に受理された。だが、時間は長くない」
隣を歩くカイが低く告げた。
「王家の原台帳は一刻だけ。持ち出し不可、転写は立会人の許可制だ」
「十分です。見るべき場所は、もうわかっていますから」
エルシアがそう答えると、カイはわずかに目を和らげた。励ましの言葉ではない。ただ、彼が信じているとわかる沈黙だった。
宰相府の上階にある原台帳室は、窓の少ない部屋だった。壁一面に金具付きの棚が並び、革表紙の台帳が年代順に収められている。管理官は銀縁の眼鏡越しに二人を見比べ、最後にエルシアの名へ視線を落とした。
「リュネット伯爵家のご令嬢ですか」
その声には、王都の噂が薄く混じっていた。エルシアは膝を折らず、封蝋師として礼をした。
「北辺伯監査補佐、エルシア・リュネットです。本日は雪境通行誓約に関する追約台帳を確認します」
管理官の眉が少し動いた。令嬢ではなく、職名で立つ。それだけで、足元に残っていた夜会の影が一歩退いた気がした。
運ばれてきた台帳は、青黒い革に王家の金印を押した重い一冊だった。表紙の封蝋は古びた朱色で、王冠の紋が半ば摩耗している。エルシアは手袋越しに近づき、息を整えた。
「温かいです。でも、ところどころ不自然に冷たい」
「白蝋か」
「表面にはありません。けれど、触れた者の手順が似ています」
ページを繰る許可が下りる。管理官が横に立ち、カイが反対側で記録紙を用意した。エルシアは索引から雪境通行誓約を探した。第一号、第二号、第三号。そこまでは整然と記されている。
そして、第四号の欄だけが空白だった。
番号の枠はある。罫線も、日付を書くための細い区切りもある。だが題名も当事者名もなく、白い紙面だけがそこに眠っていた。次の行には何事もなかったように第五号と記され、別の関税誓約へ進んでいる。
「欠番ではありませんね」
エルシアは指を浮かせたまま言った。
「欠番なら、枠そのものを作りません。これは一度書かれ、そのあとで消されています」
管理官が硬い声を挟んだ。
「経年による退色では」
「退色なら熱は薄く広がります。でもここは、文字の形だけ冷えています」
エルシアは銀紙の写しを取り出した。前夜、崩れる封蝋から拾い上げた雪松と獅子、そして母セレナの名。その下に伸びていた細い枝を、台帳の空白へ重ねる。
銀紙が淡く光った。
空白の上に、見えない圧痕が浮かび上がる。インクはない。けれど筆圧だけが紙の繊維に残っていた。エルシアは胸が鳴るのを押さえ、浮かんだ熱の流れを読む。
「王暦百八十二年、冬至前。北辺領救援備蓄に関する追約」
カイの手が記録紙の上で止まった。
「救援備蓄?」
「はい。雪境通行誓約で峠を開く代わりに、王家は北辺の備蓄庫へ毎冬、穀物と薬草を送る。通行税の一部をその費用に充てる、と」
読み上げながら、エルシアの喉は乾いていった。北辺の冬は厳しい。王都の地図の端にあるだけの土地ではない。人が暮らし、子どもが育ち、病人が春を待つ場所だ。その備蓄が消されたなら、失われたのは紙の一行では済まない。
「母は、ここを直そうとしたのですね」
圧痕の末尾に、修復証人の署名が薄く残っていた。セレナ・リュネット。誓約庫の銀紙と同じ、やわらかく芯の強い熱だった。
そのとき、扉の金具が鳴った。
「閲覧はそこまでにしていただきたい」
入ってきたのは、灰色の官服をまとったオルセウス宰相補だった。穏やかな笑みを浮かべているのに、目だけは台帳より冷たい。
「古い台帳には、虫食いや筆写の乱れが多い。北辺伯ともあろう方が、少女の感覚だけで王家の記録を疑うのは軽率でしょう」
カイは台帳から手を離さず、静かに向き直った。
「少女ではない。王国の契約修復に任じた封蝋師だ」
部屋の空気が張りつめる。エルシアは一瞬だけ指先を握った。怖くないと言えば嘘になる。けれど、母の名が残した熱が、逃げるなと責めるのではなく、ここにいていいと支えてくれていた。
「私は感覚だけで申し上げているのではありません」
エルシアは銀紙を台帳から外し、管理官へ向けた。
「原封蝋から採取した熱写しと、原台帳の圧痕が一致しています。第四号は存在しました。さらに、その削除には白蝋と同じ冷えが残っています。経年劣化ではありません」
オルセウスの笑みが、ほんの少し薄くなった。
「では、その白紙に何が書かれていたと?」
「北辺領を飢えさせないという、王家の約束です」
言い切った瞬間、エルシアの胸に熱が戻った。婚約破棄の夜、彼女の言葉は誰にも届かなかった。けれど今は違う。台帳があり、銀紙があり、カイが立ち会い、管理官の震えるペン先が記録している。
カイが署名欄へ名を書いた。
「第四号空白について、監査記録に載せる。原台帳の保全を請求する」
「宰相府の許可なく保全はできません」
「ならば、拒否した者の名も記録する」
短い沈黙のあと、管理官が小さく息をのんだ。オルセウスはそれ以上強く止めなかった。ただ退室の際、エルシアの横で足を止めた。
「真実を拾う手は、時に自分の居場所まで掘り崩しますよ」
「白紙にされた約束の上に立つ居場所なら、私は要りません」
声は震えなかった。オルセウスが去ると、台帳室に残った灯が少しだけ明るく見えた。
エルシアは空白の頁をもう一度見つめた。何も書かれていない白い枠。その奥で、消された文字の熱はまだ眠っている。
王家が忘れたふりをした約束は、たしかにここにあった。
そして、それを消した者もまた、この空白を恐れている。




