第11話 元婚約者の遅すぎる後悔
王城の廊下に出ると、朝の冷気とは別の冷たさがエルシアを包んだ。
すれ違う官吏たちは誰も声をかけてこない。ただ、目だけが彼女の胸元の書類筒を追う。婚約破棄の夜に浴びた嘲りとは違う。疑いに、恐れが混じっていた。
「今日はもう戻ろう」
カイが短く言った。台帳室でのやり取りは、彼にも負担をかけたはずだ。それなのに、その声はエルシアの歩幅だけを気にしている。
「はい。けれど、監査記録の写しは今日中に整えます」
「休むことも仕事のうちだ」
そう諭され、エルシアは小さくうなずいた。強くいようとすると、いつの間にか自分の震えを置き去りにしてしまう。カイはいつも、それを先に見つける。
階段広間へ差しかかったとき、灰色の上着を着た侍従が二人の前に膝を折った。
「北辺伯閣下、リュネット嬢。ヴェルク子爵令息が、どうしてもお目通りを願いたいと」
名を聞いた瞬間、胸の奥で古い封蝋が割れる音がした気がした。
ダリオン・ヴェルク。
かつて婚約者だった人。皆の前で彼女を疑い、改竄者だと決めつけ、手を離した人。
カイの視線がエルシアへ向く。
「断れる。今すぐでなくていい」
その一言だけで、エルシアは息をつけた。会えと言われているのではない。選ぶ権利が、今の自分にはある。
「会います」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「監査に関係するなら、聞くべきです。関係しないなら、それを私が確かめます」
案内されたのは、王城の東翼にある小さな応接室だった。窓の外には冬枯れの庭が見え、枝だけになった薔薇が細い影を落としている。
ダリオンは立って待っていた。以前は整いすぎるほど整っていた金髪が、今日は乱れている。夜会で見せた自信は消え、指先は手袋の縫い目を何度もなぞっていた。
「エルシア」
呼ばれた名は、懐かしさよりも遠さを連れてきた。
「リュネット監査補佐として伺います」
エルシアがそう返すと、ダリオンの肩がわずかに落ちた。
「そう、だな。君はもう、私の婚約者ではない」
カイは扉のそばに立ち、口を挟まなかった。守るための沈黙が、部屋の端にある。
ダリオンは懐から一通の書状を取り出した。封は切られているが、割れた蝋の端に白く濁った筋が残っている。
「昨夜、父の書庫で見つけた。あの夜、君を告発するために使われた申立書の控えだ」
エルシアは手袋をはめ直し、慎重に書状を受け取った。赤い封蝋の下に、薄い冷えが這っている。白蝋そのものではない。だが、それに触れた道具の記憶が、紙の縁まで染みていた。
「作成日は、婚約発表の三日前……」
声に出すと、ダリオンが苦しそうに目を伏せた。
「君がその場で改竄したという話は、最初から筋が通らなかった。なのに私は、考えなかった。考えれば、家の立場も、私の面目も、全部揺らぐとわかっていたから」
謝罪の言葉より先に罪の形を差し出すのは、せめてもの誠実さなのだろう。けれどエルシアの胸は、思ったほど揺れなかった。
「マリアベル嬢は?」
「ローデン家は、宰相府の紹介で近づいてきた。彼女がどこまで知っていたかはわからない。ただ、白い蝋を扱う男と、何度か文を交わしていた」
「その男の名は」
「名乗らなかった。だが、袖口に灰色の月桂章があった。宰相補付きの書記官が使う印だ」
カイの目が細くなる。エルシアもその章を知っていた。台帳室でオルセウスの後ろに控えていた若い官吏が、同じ章を付けていた。
「なぜ今になって、これを?」
エルシアは書状から目を離さずに尋ねた。
ダリオンは答えるまでに時間をかけた。
「君に許してほしいから、と言えば簡単だ。けれど、それではまた私は自分のことしか見ていない」
彼は唇を噛み、深く頭を下げた。
「私は君を守らなかった。君の仕事を軽んじ、静かな人柄を都合よく解釈して、反論しないだろうと甘えた。あの夜、君がどれほど怖かったか、今さら考えている。遅すぎる。本当に、遅すぎる」
床に落ちた彼の声は、壊れた封蝋のように戻らない。
昔のエルシアなら、その痛みに自分の手を伸ばしていたかもしれない。相手が悔いているなら、怒る自分が悪いのではないかと迷ったかもしれない。
けれど、今は違う。
「謝罪は受け取ります」
ダリオンが顔を上げた。
「ですが、あの夜のことが消えるわけではありません。私が失った信用も、父母が受けた屈辱も、あなたの後悔で白紙にはなりません」
「……わかっている」
「それでも、この書状は証拠になります。あなたが証言するなら、監査記録に加えます」
ダリオンの喉が動いた。証言すれば、ヴェルク家は宰相府に逆らうことになる。彼自身の評判も、婚約破棄の夜に何を見落としたかまで晒される。
しばらくして、彼は震える手で署名紙を取った。
「証言する。今度こそ、見なかったことにしない」
ペン先が紙を走る。誓約ではない、ただの供述署名。それでもインクの下に、かすかな熱が宿った。強くはない。迷いも恥も混じっている。だが、逃げずに残ろうとする熱だった。
エルシアはそれを封蝋師の目で見届けた。
「あなたの後悔は、私の過去を直しません」
彼女は署名紙を収め、静かに続けた。
「でも、誰かの未来を白紙にさせないための証言にはできます」
ダリオンはもう一度頭を下げた。今度は名を呼ばなかった。その距離が、何よりも正しかった。
応接室を出ると、廊下の窓から薄い日が差していた。カイはしばらく黙って歩き、やがて隣で足を緩めた。
「つらくなかったか」
「少しは」
エルシアは正直に答えた。
「でも、不思議です。戻りたいとは思いませんでした」
カイはそれを聞いて、ほんのわずかに息を吐いた。安堵のようで、胸の奥にしまった言葉をこぼさないようにする仕草にも見えた。
「なら、前へ進めるな」
「はい。今度は、私の足で」
腕の中の書状は冷たい。けれど、その冷たさはもうエルシアを凍らせない。
遅すぎた後悔は、許しの鍵にはならなかった。
それでも真実へ続く扉を、ひとつ開ける重みにはなった。




