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封蝋師令嬢は白紙の誓約から幸せを結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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12/20

第12話 橋守祭と小さな告白

ダリオンの証言を監査記録に綴じた翌朝、王都の西門へ続く石橋には、色とりどりの小さな蝋片が結ばれていた。


橋守祭。


冬の終わり、川を越えて戻る商人や旅人の無事を願い、橋のたもとで古い誓約を読み上げる祭だと、カイが馬車の中で教えてくれた。


「本来は北辺領の祭だ。王都では形だけ残っている」


「橋を守る誓約、ですか」


エルシアが窓の外を見れば、子どもたちが木札に願いを書き、温めた蝋で紐を留めている。婚約や家名のためではない。明日も市場へ行けますように、父が無事に帰りますように、そんな素朴な願いが冬の光の中で揺れていた。


「北辺では、橋は境ではなく約束の場所だと言う」


カイの声は穏やかだった。けれど、エルシアはその奥に疲れを聞いた。王家の台帳、白蝋、宰相補付きの書記官。近づくほど、道は細く暗くなる。


祭の広場に着くと、王都の官吏たちも儀礼用の外套で並んでいた。中央には古い石碑があり、表面に薄い金の線が走っている。封蝋ではない。だが、魔力を通す金箔が文字の溝に残っていた。


「これが、橋守の誓約碑ですか」


「ああ。百年前、王家が北辺に通商路の保護を求めたときのものだ」


その言葉に、エルシアは息を止めた。


百年前。王家の台帳から不自然に抜け落ちていた年と重なる。


カイも同じことに気づいているらしい。表情は変わらないが、手袋の親指が剣帯の金具を一度だけ押した。


式が始まった。祭司が古い文言を読み上げ、橋守役の老人が石碑の前へ進む。老人の手には、薄茶の封蝋で留められた巻紙があった。


「本年も、橋を渡る者を拒まず、偽らず、奪わず」


広場に集まった人々が静かに頭を垂れる。エルシアも同じように目を伏せた。そのとき、巻紙の封蝋から、かすかな冷えが指先に触れた。


触れていないのに、わかる。


温かな誓約の中に、白い空洞がある。


「カイ様」


小声で呼ぶと、彼はすぐに身を寄せた。


「今の封蝋、表だけが古いものです。芯がありません。熱の中心を抜かれています」


カイの目が鋭くなる。


「祭が終わったら確かめる。騒ぎにはしない」


彼はそう言いながら、エルシアの前に半歩立った。誰にも気づかれないほど自然な動きだった。けれど、風よけのようなその背に、エルシアは胸の奥がほどけるのを感じた。


式の後、橋守役の老人はカイを見るなり深く頭を下げた。北辺伯家に代々仕えた家の者だという。控えの天幕で巻紙を見せてもらうと、封蝋の裏側に白く曇った筋があった。


「近頃、王都の役所から祭式の点検が入ったのです」


老人は皺の深い手を震わせた。


「古い文を清めると言われ、半日ほど預けました。戻った時には、重みが軽くなったようで」


エルシアは封蝋に指を添えた。熱を追う。表面には民の願いの温度がある。だが奥へ進むと、突然、川霧のような冷たさに阻まれた。


その冷たさの端に、母の工房で嗅いだことのある香りが残っていた。


「竜胆油……」


「何だ」


「封蝋を柔らかく戻す時に使う油です。母が、王家の古文書を扱う時だけ使っていました。普通の修復師は知りません」


カイは巻紙の紐を見た。


「つまり、王家の修復手順を知る者が、橋守の誓約を触った」


「はい。そして、抜かれたのは本文ではありません」


エルシアは目を閉じ、冷えの輪郭をなぞった。白紙にされた箇所は、誓約の末尾。署名の後ろに続く、負債や返礼を記す場所だ。


王家が北辺へ何を約束したのか。


それを消すために、百年前の台帳も、この祭の巻紙も白くされたのだ。


天幕の外では、子どもたちの笑い声がしていた。橋に結ばれた蝋片が風に鳴る。奪われた古い誓約のそばで、今日の小さな約束だけが温かく残っている。


「怖いです」


エルシアは正直に言った。


「近づけば近づくほど、私の手に負えないものを読んでいる気がします」


カイはしばらく黙っていた。それから、巻紙ではなくエルシアを見た。


「俺は、君の手だけに背負わせるつもりはない」


低い声だった。


「北辺伯としてではなく、カイとして言う。君が真実を読むたびに傷つくなら、そのそばにいたい。仕事のためだけではない」


胸が、祭の火に近づいたように熱くなった。


告白と呼ぶには小さい。けれど、儀礼の言葉ではない。誰かの都合で押しつけられた誓約でもない。


エルシアは手袋の指先を握りしめ、ゆっくり息を吸った。


「私も、カイ様の隣なら怖くても進めます」


それが今の精一杯だった。カイはほんの少しだけ目を細めた。


「十分だ」


天幕を出ると、夕日が川面を金色に染めていた。橋の欄干には、願いの蝋がいくつも灯っているように見える。


エルシアは老人から預かった巻紙を胸に抱いた。


白紙にされた誓約は、まだ戻せる。


そのために、自分の名で仕事を受ける場所が必要だ。誰かの家の娘としてでも、婚約者としてでもなく、封蝋師エルシアとして。


橋を渡る風の中で、彼女は小さく決めた。


次に結ぶ誓約は、奪われた過去ではなく、これから守る未来のためにするのだと。

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