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封蝋師令嬢は白紙の誓約から幸せを結ぶ  作者: 銀細工ナギ


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13/20

第13話 エルシア工房、開業

橋守祭から三日後、冬草通りの朝は、焼き栗と蜜蝋の匂いで満ちていた。


エルシアは借りたばかりの店先の鎧戸を押し上げ、通りへ向けて小さな看板を掛けた。楡の板に彫られている文字は、飾り気のないものだ。


エルシア工房。


家名も、誰かの婚約者という肩書もない。自分の名だけが、冬の光を受けている。


胸の奥が少し震えた。怖さではある。けれど、婚約発表の夜に味わった、逃げ場のない冷たさとは違う。これは扉を開ける前の震えだ。


「よく似合っている」


背後から声がして振り向くと、カイが帳簿を抱えて立っていた。護衛を連れず、北辺伯の外套も今日は簡素だ。それでも通りの者たちは自然と道を空ける。


「看板のことですか」


「看板も、店主も」


何気ない言葉のはずなのに、エルシアは手袋の指先を握った。カイはそれ以上からかわず、帳簿を作業台へ置く。


「北辺伯家からの最初の依頼だ。橋守の巻紙、王家台帳の空白に関する写し、ダリオン卿の証言記録。すべて、君の工房に正式に預ける」


「私個人ではなく、工房へ、ですね」


「そうだ。報酬も守秘範囲も、異議申し立ての手順も書いてある」


差し出された契約書には、過剰な庇護の文言がなかった。北辺伯家は調査資料を預ける。エルシア工房は封蝋の読解と修復見解を返す。判断は工房の名で行い、依頼主であっても結果を改めさせることはできない。


エルシアはゆっくりと文面を読んだ。最後に置かれた封蝋は、北辺伯の銀印ではなく、開業用に彼女が選んだ淡い金の蝋だった。


「私の印で、よろしいのですか」


「それを結びに来た」


熱皿の上で蝋が柔らかくなる。エルシアは小さな丸印を手に取った。母の遺した印章ではない。新しく彫らせた、月桂の枝を一つだけ刻んだ印だ。


蝋に印を押した瞬間、指先へ温かさが灯った。力強い熱ではない。けれど、嘘のない、静かな光だった。


「確かに、お預かりします」


「頼む」


その短い返事が、どんな祝辞より胸に残った。


午前中、客はなかなか来なかった。通りを行く人々は看板を見る。王都で噂になった令嬢の名に気づく者もいるらしく、ひそひそと囁き、足早に去っていく。


エルシアは焦らず、作業台の引き出しを整えた。赤蝋、茶蝋、金粉を混ぜた儀礼用の蝋。古文書のための細筆。白蝋を見つけたときに隔離する銀の小箱。どれも、誰かの誓約を守るための道具だ。


昼の鐘が鳴る少し前、最初の客が戸口に立った。


橋守役の老人ではなかった。頬を赤くした若いパン屋の娘で、両手に包みと一枚の契約書を抱えている。


「あの、ここは封蝋を見てもらえるところですか」


「はい。誓約書、売買証、徒弟契約などを扱います」


娘はほっとしたように肩を落とした。


「弟を粉挽き職人に預けることになったんです。でも役所の代書人が、北辺へ出る者には追加の誓約が要ると言って。読んでも、何が増えたのか母には分からなくて」


契約書の封蝋は新しいものだった。市の組合が使う茶蝋に、代書人の細い印が重ねてある。表面だけなら乱れはない。けれど、エルシアが指を近づけた途端、薄い冷えが爪先をかすめた。


白蝋ほど強くはない。だが、誓約の熱を細く削る冷たさだ。


「封は開けません。熱の層だけを読ませてください」


娘がうなずく。エルシアは息を整え、蝋の縁に残る温度を追った。弟をよい職人に、という家族の願い。粉挽き側の誠実な受け入れ。その下に、別の手が差し込んだような空白がある。


「ここです。北辺で働く間に得た収入の一部を、王都の管理費として徴収する、という文が後から入っています」


「そんなの、説明されていません」


「本来の契約とは熱が違います。無効を申し立てられます」


娘は泣きそうな顔で包みを差し出した。中には焼きたての丸パンが三つ入っていた。


「お代、足りますか」


「規定の銀貨一枚で大丈夫です。パンは、お気持ちだけいただきます」


カイが横で小さく笑った気配がした。エルシアは聞こえないふりをして、判定書に自分の工房印を押した。


それをきっかけに、戸口には少しずつ人が増えた。寡婦の家賃証文、旅商人の荷渡し状、洗濯屋の娘が持ってきた奉公契約。どれも王家の古い誓約に比べれば小さな紙だ。けれど、そこに残る熱は軽くなかった。


夕方、最後に現れたのは貴族家の侍女だった。灰色の外套を目深にかぶり、白い木箱を作業台へ置く。


「こちらを、解印済みとして証明していただきたいのです」


「解印済み、とは」


「古い誓約の効力が、すでに失われているという証明です。開ける必要はございません。報酬は先に」


差し出された袋は重かった。エルシアは受け取らず、木箱の留め金を見た。封蝋はない。代わりに、蝋を剥がした跡だけが白く曇っている。


「開けずに証明はできません」


侍女の唇が固く結ばれる。


「王都で店を続けるなら、融通も必要かと」


その言葉に、作業場の空気が少し冷えた。カイが一歩進みかけたが、エルシアは手で制した。


「この工房では、読んだものだけを書きます。読んでいない誓約に印は押しません」


侍女はしばらくエルシアを見つめ、やがて木箱を抱え直した。


「では、いずれ正式なお呼びがあるでしょう」


戸が閉まると、夕暮れの通りから北風が吹き込み、看板がかすかに揺れた。


エルシアは机の上に残った白い曇りの粉を銀の小箱へ払った。ほんのわずかでも、指先には覚えがある。橋守の巻紙に残っていた、竜胆油と白蝋の冷え。


「開業初日から、面倒な客を呼び込んだな」


カイの声には苦笑が混じっていた。けれど目は笑っていない。


「でも、分かりました」


エルシアは小箱の蓋を閉じた。


「彼らは、古い誓約を消しただけでは足りないんです。今も新しい誓約から、北辺へ渡る熱を削ろうとしている」


外では、パン屋の娘が弟らしい少年と手をつないで通り過ぎた。少年は工房の看板に向かって、照れたように頭を下げる。


小さな契約を守ることが、古い真実へ続いている。


エルシアはその温かさを胸にしまい、初日の帳簿を閉じた。窓の向こうで、北風がもう一度、王宮の方角から吹いた。

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