第8話 母の名が残る誓約庫
古い誓約庫の扉は、地下のいちばん奥にあった。
石壁に埋め込まれた鉄扉は黒く、表面には王家の紋章と、北辺領の雪松を組み合わせた古い印が刻まれている。修復庫長が差し出した鍵をカイが差し込むと、錠前の奥で低い音がした。扉の隙間から流れ出した空気は、冬の朝のように冷たかった。
「寒いな」
カイはそう言って、自分の外套をエルシアの肩にかけた。断ろうとした彼女より先に、彼は扉へ視線を戻す。
「手が冷えれば、君の仕事に障る」
仕事のため、と言われれば受け取れる。けれど外套に残る体温は、仕事だけでは説明できないほど穏やかだった。エルシアは小さく礼を言い、手袋の指先を確かめた。
誓約庫の中は狭い書庫ではなかった。天井の低い回廊が左右へ伸び、壁の龕には金属筒が一本ずつ納められている。筒には封蝋が厚く盛られ、年月を経た赤や琥珀、深い緑が眠るように光っていた。正しい誓約ほど温かい。そう教えられて育ったエルシアには、この場所全体が静かな炉のように感じられた。
修復庫長が目録台の覆い布を外す。
「古いものは王暦二百年台からございます。御母堂のお名前があったのは、こちらの補助目録です」
彼が開いた羊皮紙の端は、何度も指でたどられた跡があった。カイが灯りを近づける。エルシアは息を止めた。
――王暦三百十二年、雪境通行誓約。封蝋確認者、セレナ・リュネット。
母の名だった。
エルシアが幼い頃に亡くなった母は、いつも穏やかに笑っていた。手仕事の好きな人で、蝋を溶かす鍋の前に立つと、花の香りを選ぶように顔を近づけた。けれど王城の誓約庫で働いていたなど、一度も聞いたことがない。
「母は、リュネット伯爵家に嫁ぐ前、王城に出入りしていたのでしょうか」
「封蝋確認者なら、正式な職名だ」
カイの声は低かったが、驚きは隠していなかった。
「しかも雪境通行誓約は、北辺領に関わる。王家の軍と救援物資が、冬の峠を越える際の権利を定めたものだ」
エルシアは目録の文字に指を近づけた。直接触れる前から、名の周囲に残る熱がわかる。母の筆跡ではない。だが、その名を記した者は、確かに母の働きを認めていた。誇りに似た温かさが、薄く残っている。
「筒を見てもよろしいですか」
修復庫長はためらい、カイを見た。カイは監査印を示す。
「開封はしない。外封の確認だけだ」
指定された龕から金属筒が運ばれる。封蝋は古い深緑で、縁に赤い細線が走っていた。北辺領の雪松と、王家の獅子。二つの紋が同じ高さで押されている。
エルシアの胸が、なぜか熱くなった。
「対等な印です」
「古い時代には、そう結ばれていた」
カイの横顔に、わずかな陰が落ちる。
「今の宰相府は、北辺領を王家の保護地のように扱いたがる。だがこの誓約が残っていれば、境の通行権も徴税免除も、王家が一方的に取り消すことはできない」
だから消したいのだ、とエルシアは思った。白蝋は誓約の痕跡を薄める。もしこの深緑の封蝋が白く濁れば、北辺領が長く守ってきた権利も、最初から曖昧だったことにされる。
彼女は封蝋へそっと指を置いた。
温かい。
けれど、その奥に針のような冷たさがあった。表面は無事に見えるのに、内側だけを細く削られている。白燐谷で触れた若い白蝋と同じ、熱を奪う冷たさだ。
「外側から塗ったのではありません。封蝋の芯に、白蝋の粉が入っています」
修復庫長が顔色を失う。
「そんな、ここは王家の鍵と宰相府の鍵、二つがなければ」
「ならば、二つの鍵を使える者がいる」
カイの声が硬くなった。
エルシアは、封蝋から指を離せなかった。冷たさの下に、別の熱が残っていたからだ。母の熱。記録の中の名よりずっと近く、幼い頃に手を包んでくれた温度に似ている。
――誓約は、強い者のためだけに結ぶものではないのよ。
記憶の底で、母の声がよみがえった。
台所の小さな机。蝋の欠片。まだ幼いエルシアの手を取り、母は封蝋に細い線を入れる練習をさせていた。
――弱い人が、あとから白紙にされないように結ぶの。
エルシアは唇を噛んだ。母は知っていたのだ。この国で、白紙にされる誓約があることを。
「カイ様」
呼びかける声が震えた。けれど、逃げたい震えではなかった。
「母は、この誓約を守ろうとしていたのだと思います。だから目録に名が残った。けれど誰かが、それを隠そうとしている」
カイは彼女の手元を見つめ、静かにうなずいた。
「君の母上の名は、証人だ。君自身を縛る鎖ではない」
その言葉に、胸の奥で絡まっていたものがほどけた。母の秘密を知ることが怖かった。自分がまた誰かの罪に巻き込まれるのではないかと、ほんの少し思っていた。けれどカイは、母の名を重荷にしなかった。
エルシアは深く息を吸い、封蝋の縁をもう一度確かめた。
「この筒だけではありません。隣の三本も、同じ冷たさがあります」
カイが目録をめくる。雪境通行誓約の前後には、王家の婚姻誓約、辺境税の減免誓約、救援銀の返済誓約が並んでいた。ところが最後の一行だけ、目録の番号が飛んでいる。
「三百十二年、第四号がない」
修復庫長が慌てて別冊を取り出す。しかしそこにも、第四号の欄は薄い白の染みで覆われ、文字だけが抜け落ちていた。
エルシアの指先が冷える。
白蝋だ。
「台帳を調べる必要があります。誓約庫ではなく、王家の原台帳を」
「王家の台帳は、宰相府の上階だ」
カイは金属筒に仮封の印を施し、エルシアへ向き直った。
「ここから先は、君の過去にも踏み込む。無理に連れて行くつもりはない」
「行きます」
答えは、思ったより早く出た。
「母が守ろうとしたものを知りたいのです。それに、私も封蝋師です。消された熱を見つけたなら、見なかったことにはできません」
カイの瞳に、銀灯の光が映った。
「なら、共に行こう」
その一言は命令ではなく、約束の形をしていた。
エルシアはうなずき、母の名が残る目録をそっと閉じた。古い誓約庫の冷気の中で、深緑の封蝋だけが静かに熱を返している。
白紙にされた第四号。
母が残した温度。
そして王家の台帳に眠る空白。
次にたどるべき道は、もう見えていた。




